通勤電車で読む『「科学的思考」のレッスン』。市民のための科学リテラシーの教科書。なのだけれど。

『論文の教室』の人で『科学哲学の冒険』(http://d.hatena.ne.jp/k-i-t/20090901#p1)の人。なので、科学哲学のはなしかな、と思っていたら、まぁバックグラウンド的にはそのへんであれ、実際の内容は、科学リテラシーの教科書みたいな内容。科学リテラシーというのは、科学の成果たるあれやこれやの知識を知ることではなくて、科学を語るときの語り方を知ることである。というのは、まぁそらそうやな、という感じ。そこでたとえば科学と疑似科学を対比させたりすることで、科学の語り方を浮かび上がらせる・・・のはまぁ、そういうことなんやろう。なので、難しい内容というよりは、大学の科学リテラシー科目の教科書ってかんじで、学生が「水伝」とか血液型とか脳科学とかその手の疑似科学に安易に飛びつかなくなる、みたいなところがひとつ。それで、本の後半は、じっさいに科学リテラシーが必要なトピックとして、放射線被曝リスクについて科学的に考える、みたいなこと。そうするとこれまた科学リテラシーが必要で、このばあいその科学リテラシーを必要としているのは、「市民」ということになる。私たち一人一人が「市民」として身につけておかねばならないのが科学リテラシーである、というかんじ。それができてなかったので、科学を専門家任せにしてしまっていて、原発の問題なんかがでてきたのである、だから市民が科学をシビリアンコントロールするのがだいじだよ、そのための科学リテラシーだよ、と。
おっしゃることはごもっともで、まぁそうなのだけれど、でもそんな立派な市民がいた時代などいままでなかったし、これからだって目処も立たないほどじゃないか、と思う。いやぁ、世の中では、「民主主義」が成り立つためにはシティズンシップが必要、「市民」が担い手である、そのためにシティズンシップ教育が必要、等々言うのだけれど、文系・理系、人文社会科学自然科学問わず、「市民」の要件を人々が満たしてたことなんかあったのか、教育なんてひたすら惨敗続きじゃないか、みたいに思う。それは、震災以降の世の中を見ていてもいよいよ明らかなんで、ちょっと途方にくれることはあっても、たとえばこういう本が出てきていまさら新鮮に科学リテラシーの効用など言われてもねえ、という気になる。そんなことは昔からわかってたうえでのあれこれの教育が試行錯誤を繰り返したあげくの現状なんで、ちょっとなぁ、みたいな感想は、正直、ある。あるんだよなあ。
あとまぁしかし、それはそれとして、読んでて思っていたのは、やはり科学論のところ。学内で研究会とかよくやっていただいている言語学の先生と、よく喋っているのだけれど、こちらはエスノメソドロジーとかで、そうすると途中までは話はとても合う、でも最終的なところで決定的に違ってくる。それで、一般的法則を立てようといういみで言語学はいわゆる科学だけれど、そうするとエスノメソドロジーは一回的な個別の事象を記述しようとするわけで、そこんところで分かれてきます、と。で、それはもう、エスノメソドロジーはいわゆる科学に対するオルタナティブだってことでかまわんっちゃかまわんのだけれど、そのへんをうまく、「疑似科学」とは違うものとして説明できないかなあと。この本の中では、ポパーに乗っかりつつ精神分析マルクス主義を例に挙げて、反証可能性がないからってことで科学の外側にはじき出してしまうような印象を受けるけれど、やっぱりこの本がイメージしている「科学」とは違う動機で動いているけれどやっぱりそれも別の「科学」、みたいなものを、すくいあげる値打ちってのは、あるんじゃないか、とか。