通勤電車で読む『ドゥルーズを活用する』。無責任さがよい。

ドゥルーズを「活用」する

ドゥルーズを「活用」する

なんにしてもそうだけれど、ドゥルーズ本にしても、昔々のおもしろい本たちの時代は過ぎて、ある時期、たぶんある世代的なヘゲモニーということだろうけれど、アカデミックなしっかりとしたドゥルーズ研究書というのがでてきて、それはやはりごくシンプルな意味でよいことである。無責任なオモシロ主義がよかったなどとは言わないわけで、粗悪なドゥルーズもどきが流通して・それらがまた輪をかけて粗悪な読み方で読まれていたことが、よいことだったわけはないのだから、正しいドゥルーズ本という流れができてきたのはよいことだと、なんの留保もなく断言してかまわない。だいいち、ドゥルーズが言っていることが生真面目なアカデミズムみたいなものをハンマーで粉砕するような内容を含んでいるからといって、ドゥルーズその人はきっちりと厳格な哲学史の読みをできる人であったということで、あまりに厳格にきっちりと哲学史を読みぬき考え抜くことで、凡庸な生真面目なアカデミズムが粉砕されてしまうということになったわけだから、つまり私たちはやっぱり真面目にきちんとやってくしかないじゃないか、ということも、なんの留保もなく断言してかまわない。
でもってこの本、2年ほど前に出た、きわめて無責任な本である。「此性」の説明とか、大学教員が自己点検評価や業績のポイント制のためにどれだけ退廃していくかという愚痴とか、シネマのくだりとか、けっこう通俗でたいしたこといってないなあ、こんなふつうのことを言うためにドゥルーズがあんな大著を何冊も書いたとは到底思えないなあ、といいつつ、この本、まさにそのいまさらながらの無責任さがよいと、なんの留保もなく断言してかまわない。
ついでに言うと、「マッハ文朱は悪くない」とか「哲学の本でコップが出てきた瞬間にその本を捨てても構わない」とかも、なんの留保もなく断言してかまわない。
ついでにいうと、こういう無責任な本を書いていながら大学のホームページの教員紹介なんかでは生真面目で凡庸なプロファイルや「ひとこと」や顔写真を載せてるんだろうな、載せてなかったらむしろがっかりだ、しゃあしゃあと大学教授のペルソナに屈していたら尊敬しようと思った。