- 作者: 栗原康
- 出版社/メーカー: 夜光社
- 発売日: 2013/12/24
- メディア: 単行本
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後日、『近代日本の批評3 明治・大正篇』の蓮實担当「「大正的」言説と批評」とかをぱらぱらと読み返す。
- 作者: 柄谷行人
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1998/01/09
- メディア: 文庫
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浅田 ただ、大杉栄は、非常に口語的に、なんの引っかかりもなく書いてしまう。よくも悪くも愛すべき人だと思うんですね、『ファーブル昆虫記』を訳したりして。そういう雰囲気でアナーキズムをやっているのであって、言ってみれば毒にも薬にもならない。なぜ国家があんなものを弾圧しなければならなかったか、いまになってみればわからない。幸徳秋水にはまだ「明治的」なものの引っかかりは残っている。逆に、同じシュティルナーを使ったので言うと、シュティルナーをファーブルやなんかといっしょにする大杉栄より、シュティルナーとダダをつなげる辻潤のほうに、のちの坂口安吾につながるようなものがある − むろんひいき目にみればの話であって、辻潤の妻の伊藤野枝が『青鞜』に行ったあと大杉栄のもとに走るとか、ほとんど同じところにいるわけですが。ともあれ、その中間にいる大杉栄が、「大正期」の雰囲気を非常によく象徴していると言えるんじゃないですか。
みたいな。
蓮實 たとえば伊藤野枝の文章、あれはアナーキズムということになっているけれども、その語り方で女性的エクリチュールを喪失している。二重の意味があって、一つは、国家権力を廃棄するために近代をやめましょう、村で暮らしましょうという話なんです。そうするといまの日本のコンセンサス社会をあらかじめ予言しているような内容になり、それは実は当時の神仏習合的な男性の言葉である。また、こうした主張の一般性を確信した奇妙な世界性という点からしてもそうなんです。
柄谷 この前、大杉栄と武者小路は似ているとぼくは言ったけど、たとえば、「元始女性は太陽であった」と言った平塚らいてうは、完全に白樺派です。あの『青鞜』のマニフェストは、まったく白樺派です。雑誌『白樺』に言及して、「フランスに我がロダンあり」と言っている。ロダンのことでは、近年にフェミニストが書いた本があるけど、らいてうはロダンを無邪気に礼賛している。ここに出てくるフェミニズムは、樋口一葉に比べればヤワだね。話になりませんね。
とかそういうかんじ。
それでもまぁ、ちょっと憎めないところもあって、
三浦 (・・・)自然主義というと国木田独歩、田山花袋と岩野泡鳴とかが出てくる。白樺というと武者小路、志賀直哉とかが出てくる。そういうふうな文脈でいった場合、私小説的なものを、必ずしもこの二つに関連させなくていいんじゃないかという感じがしてくる。エンターテインメントが成立し始めたときに、それに対抗して、ピュアなものというか、ピュアと思われるものに執着する一群の人たちが登場した。葛西善蔵であるとか。それは文学の文学性みたいなところを守るという幻想に支えられて出てきた、ととったほうがいいんじゃないか。
野口 同時に哲学は、求道性という点では、妙にいっしょの枠に入ってしまう。
柄谷 年表を見ると、葛西善蔵の『子をつれて』と同じころに大杉栄が『獄中記』を書いている(笑)。これは似ているんじゃないですか。
野口 同じですよ。監獄のなかで、出歯亀と会ったという話は、ちょっとスタイルを変えれば小説になりますよ。
とかなんとか。