映画『ファンシイダンス』再見。9巻の原作から何を選ぶか。

ファンシイダンス [DVD]

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先日、漫画を読み返した(http://d.hatena.ne.jp/k-i-t/20180812#p1)流れで、映画版のほうも見直すことに、まぁなる。お盆休みということで散歩に出かけようとしたら一瞬、黒い雲が空を覆って雨粒が落ちてきて、雷がごろごろと鳴り、遠くのほうで雲から稲妻と、カーテンのようなゲリラ豪雨が降ってるのが見えて、なんか遠出する気が失せてくるりと回れ右、帰宅した。それでまぁ映画版『ファンシイダンス』見るべしと。
で、原作は9巻あって、最初の3巻で主人公はバンド(ポストパンクかニューウェーヴか、ってかんじ)のボーカルで、過剰な美意識というか自意識というか韜晦というか、オシャレ&カッコよさを追求したあまり一周回ってカッコいいようなカッコよさなわけで、そのあたりの自意識と韜晦のもてあましっぷりを十分に見せた上で、またその彼女の真朱サンという − この彼女は彼女で主人公同様のオシャレ自意識もてあましっぷり − 煩悩を引きずりながらのラブコメ、オシャレなんだか自意識なんだか不器用なんだかストイックなんだかよくわかんないがラブコメとしかとりあえずいいようのないものを存分に展開した上で、なにしろまたこの主人公が禅宗の寺の跡継ぎということで、大学を卒業して「お山」に修行に入り4巻から7巻までが修行僧モノ、お寺ライフの中で主人公の過剰な美意識だか自意識だかが磨かれたんだか変化したんだかしていき、それがまた8巻のはじめで「お山」を下りて娑婆に戻り、8,9巻ではその何か美意識だか自意識だかの磨かれたんだか変化したんだか悟りに近づいてるんだか遠ざかってるんだかよくわからない主人公が世俗世界の煩悩の巷にあってどのようなありかたに着地するのかを描いている、みたいなおはなしなんだろうと思うけれど、まぁ映画というのはご存知、100分ほどしかないので、そんな長編の物語をそのまま映画にすることはできない。でまぁ、原作の何を選んで何を柱にして起承転結をつけるか、ということになる。
でまぁ、映画はほぼ3巻から始まる、というか、娑婆での最後のライブシーン、頭を左半分だけ坊主にして歌い踊るところを最初にもってきて、まぁ手っ取り早く主人公がバンドのボーカルだということ、奇矯な男だということ、彼女の真朱サンを置いて入山すること、ぐらいを伝えて、そこからあとはまぁさっさと「お山」のシーンへ。で、修行僧たちの知られざる一風変わった日常を面白おかしく紹介する、というあたりは、この映画の監督がこのあと『シコふんじゃった。』や『Shall we ダンス?』を撮ることになる周防正行だということを思い出させるわけである。主人公たちをシゴく先輩僧侶が竹中直人、夜な夜な山のふもとのキャバクラにカツラをかぶって出没、おねえちゃんたちに嫌がられてみたり、ときどき不美人な彼女が寺を訪れると鼻の下を伸ばしたり、まぁいかにも竹中直人的コミカルな役回り、こういうのも『シコふんじゃった。』や『Shall we ダンス?』につながるかんじがある。でまぁ、お山の中でどたばたしているうちに、主人公が首座を務めることになって、それで法戦式をやるところ − 原作だとほぼ6巻の終わりまで − がクライマックス(どうやら、なんでもでてくるWikipediaによれば映画化の時点では原作がまだ連載中だったのでこうなったのだそうだ→ファンシィダンス - Wikipedia)。さてそうすると、この映画が原作から何を選んだかというと、「現代っ子の青年が俗世を捨てて修行する、禅寺で繰り広げられる面白おかしい修行ワールド」みたいなところで、逆に何を切り落としたかというと、主人公がバンドをやり真朱サンと微妙な関係を続けながら過剰な自意識or美意識or韜晦orカッコよさorよくわからない何かをもてあましていたのが、禅寺で修行することでむしろいっそう磨かれたんだか変化したんだか、していく、というあたりの、悟りとは何か、オシャレとは何か、みたいな、悟りを開いたラブコメとは何か、みたいな巨大な問い、これが手付かずで切り落とされてるんである。まぁそれはそれ。
ただまぁ、映画冒頭のライブを見ると、ポストパンクでもニューウェーヴでもないスカorスカパンクのバンド(ボーカル以外はスカパラが演っているようだ)で、これはちょっと納得できないというか美意識のありようがまずもって冒頭から違う!という気にもなるわけである。