「社会学は「常識を疑う」ものだ」という言い方の耐用年限が切れとるんやないか、と以前書いたエントリが、Yahoo!で「社会学 常識を疑う」で検索をかけると1位で出てくる。ケッサクだ。

「社会学 常識を疑う」の検索結果 - Yahoo!検索
以前書いた(http://d.hatena.ne.jp/k-i-t/20070412)このエントリが、上記検索で1位になっておる(・・・と思ったら勘違いでした。10位台ぐらいですね)。おもしろい。このはてなダイアリは、リンク元が表示されるので見てみて気づいた。
たぶん、レポートのシーズンで、あちこちの学校の社会学の先生たちが、「常識を疑う」みたいな課題を出したりして、学生さんたちがレポートのネタ漁りで「パソコンで調べ」たりしてるんじゃないかなあと思う。
そしたら、2位以下はともかく、1位にいきなり、そうじゃないようなことを書いている文章が出てきて、学生さんが混乱したら面白いなあと思う。あるいは、奇妙なレポートがたくさん届いて全国の社会学の先生たちが困惑するというのも面白いだろうと夢想するのだけれど、まぁそういう事態はあんましおこらないだろうけれど。

以前書いた文章はこんなかんじ。

・・・
「常識を疑う」というけれど、社会の中で一般的に通用する「常識」というものが機能しなくなっているのだから、「常識を疑う」ことだって機能しなくなっているでしょう、ということ。
ひとつの「常識」が社会全体を覆っている、という状態であれば、それを「疑う」ことは大切だし、それには「確かな力」が必要だろう、と思う。
でも、もともと複数のものの見方があるばあいには、「常識を疑う」という体裁のもとに、自分と相容れないものの見方を攻撃する、ということがおこる。
「オレは真実を知る少数派だ」みたいなヒロイックな気分で、そのじつきわめて安易で独善的な自分の見方に固執する、みたいな。自分と異なるものの見方に「愚昧な世間の常識」というようなレッテルを貼って、叩く、みたいな。たとえばいわゆる「「フェミニズム」叩き」なんてそうですね。

ところで、いわゆる「社会学は「常識」を疑う」みたいな言い方の、耐用年数がそろそろ切れてきていると思う。
社会学はほんとうはもっと違うことをやるのだけれど、まぁ初学者にわかりやすいように「社会学は「常識」を疑う」みたいな方便を言ったりするのだけれど、
こまったことに、社会学をやっていると自称している人の中でも、ほんとうに「社会学は「常識」を疑う」ものだと自分で思い込んでしまうひとがでてきたりして、ところが上にのべたごとき理由でもって、社会学の物言いが、質の悪い通俗的自己愛的言説に吸収されてしまっているように思われる。

べつに普通のことを言ってるだけですね。常識だ! これからの社会学者は常識を言うことにしよう! みたいなムーブメントがこないだろうか。来ませんねえ。
いやしかし、このようなことについて、「相対化」というキーワードをめぐって以前論文を書いたような気もして、学会のテーマセッションで報告したような気もするのだけれど、もひとつ話がつうじなかった覚えがある。