近所の書店で購入。佐々木編『包まれるヒト 〈環境〉の存在論』、フーコー『哲学の舞台』、辛酸なめ子。

包まれるヒト―“環境”の存在論 (シリーズ ヒトの科学 4)

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『哲学の舞台』増補改訂版

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ほとばしる副作用 (文春文庫PLUS)

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自立日記 (文春文庫PLUS)

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時ならぬ辛酸なめ子ブームなのか?
たぶん、先日読んだ中条省平ナンシー関について書いていたことが関係あるかもしれないが、ナンシー関辛酸なめ子は違うだろう。
それでもそそくさと一冊読んで、解説を読んでみたら、「辛酸なめ子に関して故・ナンシー関の再来などという評価をよく聞くが、そうではない。」と書いてある。やはりナンシー関辛酸なめ子は違うということで、それならばなぜ中条省平ナンシー関について書いていたからといって自分が辛酸なめ子を買おうとしたのだろうかまったくわけがわからない。
まとめて読むのは初めてに近いかもしれない気がする。読んでみたら、さほどすごいとも思わない。アイドル評みたいなものがあるのでそのへんがナンシーと同ジャンルかもしれない。文庫の帯に「宇宙の膨張速度に迫る勢いで、日々、小池栄子が膨張し続けています」「MEGUMIに一抹の知性を感じるのは気のせいでしょうか?」というフレーズが引用してあって、このふたつにかんしては非常に共感した。本文を読んでみると、それぞれのアイドル評の小文の冒頭の文なのだけれど、じつはほとんどさいしょのフレーズの感覚だけがよくて、あとは、アイドル評としてはなんだか要領を得ない。さしたる根拠もないいわゆる妄想をふわふわと書いているだけで、その辺の迫力はナンシー関のほうがあるだろう。対象を文章によって追い詰めていく感覚というか。ただ、ナンシー関のほうは、さいしょの直感に共感できないので、そのいみではなめ子のほうがいい。
というか、読んでいると、ナンシー関とは文章そのもののジャンルが違うじゃないかという気がする。
ナンシー関のテレビタレント評の文章は、ナンシー関の見識を正確に表現するものであって、ジャンルとしてはエッセイなのだろうけれど、
辛酸なめ子の文章を読んでいると、低温発酵して狂った方向に静かにふくらんだりしぼんだりするいわゆる妄想の文章は、それじたいが読み物なんである。妄想を記述する文章ではなく、それじたいが妄想を構成するような狂った文章っていうか。なので、エッセイというより、中原昌也とか、えーと、猫田道子『うわさのベーコン』とかそういう、小説の文章を読むようなかんじ。