『シネマトグラフ覚書』読んだ。

シネマトグラフ覚書―映画監督のノート

シネマトグラフ覚書―映画監督のノート

連休ってことでこのまえ買ってきてた本を読むシリーズ。シネマでなくてシネマトグラフ。俳優でなくてモデル。
原理的なことだけがくりかえし、アフォリズムのかたちで書かれている。

撮影された演劇ないし シ ネ マ は、演出家ないし監督が俳優に劇を演じさせ、劇を演じるそれら俳優たちをキャメラに収めること、次いで、撮った映像を整理し正しく並べること、を要求する。素性卑しい演劇だ。ここには演劇の核心をなす肝心要のもの、つまり、生きている俳優たちの物質的な現前、俳優たちに対する観衆の直接的な働きかけが欠けている。

とか

シネマトグラフの真実は、演劇の真実でも小説の真実でも絵画の真実でもありえない(シネマトグラフがその固有の手段によって捉えるものは、演劇や小説や絵画がその固有の手段によって捉えるものでもありえない)。

シネマトグラフの映画においては、映像は、辞書の単語と同時に、その位置と関係によってのみ力と価値を持つ。

もし或る映像が、それ自体として切り離して眺めたとき何事かを明瞭に表現しているならば、またある解釈を包含しているならば、それは他の映像群との接触によって変化することはないだろう。他の映像はその映像にいかなる力も及ぼさないだろうし、後者もまた前者に対していかなる力も持ち得まい。作用もなく反作用もない。その映像は決定的なのであり、シネマトグラフのシステムにおいては使用不可能である(一つのシステムはすべてを統轄するわけではない。それは何事かが始まるための糸口だ)。

取るに足らぬ(意味を欠いた)映像の数々に専心すること。

とか

精神に生起する現実は、もはやすでに現実的なものではない。あまりに思慮深すぎる、あまりに賢すぎるわれわれの眼。
二種類の現実。(1)キャメラがそのありのままの姿で記録する生の現実。(2)われわれが現実的と呼びながら、にもかかわらず自分の記憶と間違った計算によって歪められてしまうのをわれわれが目の当たりにするところのもの。
問題。君に見えているものを人々に見させること、それも、君が見ているようにはそれを見ていない機械を間に介して。

そして

シネマトグラフの未来は、制作に有金残らずはたき、しかもこの職業の現場の因習に足を取られることなく映画を撮りつづける孤独な若者たちからなる、新たなる一種族のものである。