ドゥルーズというとまぁ世代的にですね、『シネマ』だって買ったわけで(『シネマ』といえばこういうのもあったですね→
http://d.hatena.ne.jp/k-i-t/20070108#p1)、まぁしかしウニベルシタスの太い本上下二巻もあって、しかも、
ベルグソンの話が出てくるという噂でそうなのかという方向性で覚悟して読みかけてみたらいきなりパースの
記号論?とか出てきて、まぁとうぜんつんどくになりながら幾年月。それでまぁ、この本のサブタイトルが「ゼロから読む
ドゥルーズ『シネマ』」ということなんで、それは好都合だ、こちとらゼロだゼロ中のゼロだよ、というわけで読んでみた。まぁそうしたら、わかったか、といわれたらさぁねということにはなるにせよ、少なくとも明快な印象が残ったのでよしとするわけである。なにせ
ドゥルーズ本はこうでなくては(
http://d.hatena.ne.jp/k-i-t/20140115#p1)。で、300ページぐらいの本で、いちおう『シネマ』二巻の筋書きをいちおう愚直に理屈通りに辿っているように見える。で、なんでそんなことができるかというと、この本、具体的な映画作品についてはほぼ完全に言及しないで理屈のあらすじだけを追いかけるという手に出ているってのがひとつ、そして、
ドゥルーズの本書のほかにはとにかく
ベルグソンだけで乗り切ってしまおうという割り切りがひとつ、それで記述がとてもシンプルになって、まさに予備知識なしで「ゼロから読む」むけになってただろうと思う(ちなみにパースに関しては、もちろん出てくるけど、パースの議論そのものを深追いしてなくて、パースの提起した語彙をさっさと
ベルグソン・
ドゥルーズ的な筋書きで説明してしまうので、パース知らなくて困る感が薄い)。しかも、一般的な『シネマ』解釈だとどうやら、
ドゥルーズが
ベルグソンの言ってないことまで言って乗り越えてる的に言われているんだそうで、ところがこの著者の人は、
ドゥルーズが
ベルグソンの言っていることをまったく文字通りそのままに読んだことによって『シネマ』が産まれたのだというふうに言っていて、しかも
ドゥルーズのそういうあまりに
リテラルな「素朴な」見方というのを、まさにこの『シネマ』の中で映画が見られる時の
リテラルな「素朴な」ありかたから導き出してて、なにげにおもしろい。