通勤電車で読む『人間の生のありえなさ』。「なぜ私なのか」という言っても詮無い問いをめぐって。

ヴェイユ、AA、田中美津、(あとサンデルが少し、あと小泉八雲も)を手掛かりに、Why-me-question(というのだそうで、たとえば不幸に遭って「なぜ私なのか」と問うような問い)、言っても詮無いような問いをめぐって、「私」というのの偶然性?をめぐって考察している。ふむふむと読んでいると、終章からおわりにかけて、「言う端から言葉が意味を失い消えていくような場所にいながら、それでもなおそこで何かを言い続けようと地団太を踏み、ほとんど意味不明な言葉を発する滑稽な女」と「罪を犯し主人を恨み主人の手で打ち首になりながら石に噛み付いて臨終の際の思いを果たして消えてしまった愚かな、滑稽な男」、といった姿がたたみかけてきて、そして「なぜ私なのか」という声を前にして祈ることもできなくなっている「怠惰」な私たち、しかし……… 、ということで、ぐぐっとくることになる。