『ファシリテーションとは何か』読んだ。

じぶんがファシリテーターということばに最初に触れたのは、M1のときだからたしか1989年?ということになるけれど、臨床心理のグループワークの実習に出ていたときだと思う。臨床の授業には演習や実習も含めいろいろ出ていて、カウンセリングの実習もたしか3つぐらいあったうちの、東山先生のエンカウンターグループには、たしかさすがに泊りがけで行く気力がなくて(あるいはたんに学年と開講年度のタイミングが合わなかっただけという気もしてきた)行かず、森野先生のカウンセリング実習と大利先生のグループワークの実習を受けた。で、やはりその後いまにいたるまでの影響をかんじている。とくに大利先生のグループワークは、いま生涯教育の専攻にいる自分としては、原体験みたいになってるところがある。で、そのグループワークでは、ファシリテーターということばを使ってたと思う。そのときはそういうものかと思っていたのだけれど、そのご、いまの職場に拾ってもらって、なんやかんややっているうちに『ファシリテーション革命』があり『ファシリテーショングラフィック』がありということで、名詞形の「ファシリテーション」はそのときだと思うけれど、やはりおお、これは、ということになって、いまにいたる。生涯教育を勉強している学生さんたちには、ファシリテーターとしての能力をつけるべしといえばいいのか、ということで、そのように言っている。
で、この本は、2018-19年の教育社会学会の課題研究の企画から発展して編まれたものということで、これはじぶんはとうぜん読むべしの本なのである。でまぁ、第3部の、教育社会学から見たアクティブラーニングやファシリテーションというのは、まぁやはり自分も業界的にそういうことをおっしゃるだろうなというのはわかるとして、やはり本書はまずさいしょに第1部で、ファシリテーションを推進している中野民夫氏、中原淳氏にたっぷり語ってもらっているところがおもしろいわけである。また、第2部で「熟議民主主義」のかたにも参加してもらっているところもおもしろい(熟議民主主義とファシリテーションというのが似ていつつ違う、違うようで共通してる、のだよ、というのは、言われてみればというところ)。
でまぁ、願望としては、堀公俊氏のほうの、もう少しビジネス寄りのファシリテーションのおはなしも読めればよかったなあ(教育社会学のひとの目線からするともう一段階温度差が出てくるような気がする)というのと、あと、中原氏が学生時代について語っておられたなかで出てきた、90年代の教育社会学の「ポストモダンかぶれ」とかいうのがどなたのことだろうと思わなくはないのだけれど、たとえば90年代に東大教育社会学の大学院生として学会の理論部会で活躍しておられて、そのご、南山大学人文学部心理人間学科に就職し、いまも大学院「教育ファシリテーション専攻」で研究指導教員をしておられ、南山大学が出したあのテキスト『ファシリテーター・トレーニング』にも参加されている、加藤隆雄氏のおはなしを聞ければまた角度の違うおはなしがうかがえたのではと思った(加藤先生、90年代にはエスノメソドロジーで社会化論というあたりをやっておられて、その後、ファシリテーションのほうにも参加されているということで、自分としてすごく関心があるわけである)。

通勤電車で読んでた『組織デザイン』。事例ではなく原理が書かれている新書版のテキスト。わるくない。

れいによってTwitterでみかけて、読んでみたらよかった。2004年の本で、日経文庫なので、書店で視界に入ることはあっただろうけれど、いままでしらなかったわけである。
で、この本、じっさいの企業の組織の事例を紹介するのではなくて、原理のところを書いているのがおもしろい。

本書に登場する例のほとんどは仮設例であり、基本的な組織設計の論理・原理原則を頭で理解するために理論的に単純化されたものである。その意味では、「成功している会社の事例を多数知りたい」と考えるような、組織の事情通を目指す人を読者に想定していない。

という言い方がいい。
組織のもっとも基本的な特徴は「分業」と「調整」である、というところからはじまって、じゃあまず分業にはどんな種類があるか、それぞれのメリット・デメリットはなにか、と進む。つぎに調整だけど、まずは事前にやっておく調整、つまり、標準化、が俎上に上げられる。つぎに、作業の処理プロセスの連動をどのようにデザインすると何が起こるか、が紹介される(たとえば処理能力の異なるいくつかの工程がくみあわさると、処理能力の一番ひくい工程がボトルネックになる。じゃあぜんぶの工程の処理能力をピタッと合わせておくと無駄がないかというと、外部環境の変動なんかの不確定要素に対して弱くなる。後工程の処理量は前工程からの処理可能な仕掛け品量によって制限されるわけだから、あとに行くにつれてバッファを見て置くといいのか。でもバッファを積みすぎると冗長になる。で、バッチのサイズを小さくすることで変化に対応しやすくする。どうのこうの。で、リーンだのなんだのという話も出てくる)。で、しかし、組織というのはルーティンだけを回せばいいということではなくて、不確定要素に対する判断処理をする仕組みがひつようだ。そのためにヒエラルキーというのが機能する。事前に標準化できないことについての事後的調整手段として、組織にヒエラルキーがあって、それぞれの部分のトップに判断の権限を持つ人がいて、なんかあったらその人が判断する、としておけば、不確定要素をスムーズに処理できる。では組織のヒエラルキーはどのようにデザインするか。たとえば「管理の幅」という概念。一人の長が何人の部下を持つか。単純に言えば、ある組織の管理の幅が決まれば、組織のメンバー数によって自動的に組織の階層数は決まることになる。でも、管理の幅というのは不確定要素がどのぐらいあって標準化がどのくらいできて、みたいなことによって左右される。じゃあどんな組織にはどんなヒエラルキーが必要か。等々。
でまぁ、こういう原理的なところのテキストをみて、また例によって自分の職場のことを考えつつなのだが、どのように理解できるかを考えつつ読むわけである。

通勤電車で読む『経営を強くする戦略総務』。

例によってTwitterのタイムラインを流れていてなんとなくタイトル的に面白そうかなと思って。まぁしかし、タイトルが一番強いというか、最初のあたりで総務の仕事は一般的には、「1 社内のサービス・スタッフ機能」「2 経営層の参謀役」「3 全社コミュニケーションのパイプ機能」「4 全社的活動の推進役」の位置づけとして考えられることが多い、となっていて、へえ、そうなのかと。総務部が経営層の参謀役になる、というのは、なんかドラマみたいだけどそれが一般的なのかなあと思わなくはなくて、しかし、そうでなくては「戦略総務」という本が成り立たないというのもある。まぁ、会社ごとにそのへんはいろいろなのだろうなあという気がする。ところでこういう本はとうぜん、自分の職場で考えたらどうなのかなとも思いながら読むわけだけれど、大学というのは、教職員のレイヤーと学生というレイヤーがあって、だから総務的なやくわりも、大学全体の総務にあたるセクションと、教員の教育研究支援にあたるセクションと、学生支援にあたるセクションと、分化しつつ連携しつつというかんじになってるってのがあると感じる。そうすると、たとえば社食をうまくデザインしてクリエイティブなコミュニケーションの環境にするみたいなことを構想するとすれば、たとえばうちの大学だと、どこがどういうふうに動くことになるんだろう…みたいに考えながら読んでた。まぁ、そういう垣根はどんな会社にもあって、そこを推進する突破力を求めるというのが「戦略総務」というワードの趣旨なのだろうな。

『追われる男』みた。

ニコラス・レイだというので。このところBSで、この手のやつをやるみたい。で、ジェームズ・キャグニーがかなりオッサンになってからのやつみたい(Wikipediaでみてみたらキャグニー56歳の時の作品である)。ふとしたことで若いあんちゃんと知り合い、ある町に向かってたら、またふとしたことで強盗団と間違えられて町の自警団に撃たれ、あんちゃんが大怪我、それで誤解は解けたけれどあんちゃんは瀕死ってことで町はずれのとある貧しい農家に運び込まれてそこで看病される。流れ的にジェームズ・キャグニーもねっしんに看病、どうやら亡くなった息子のイメージを重ね合わせてるみたい。で、ねっしんな看病の甲斐あってあんちゃんが徐々に回復、足の不自由は残ったけれどみたいなことになる。ところでその農家が、父親と娘だけでやってて、どうやらスウェーデンからの移民みたい。というところまではまぁいいとして、これ流れ的には、回復したあんちゃんとその娘がどうにかなる話かと思ったら、なんだか雲行きが怪しくて、娘が相思相愛になるのはなにやらジェームズ・キャグニーのほうらしいのである。まぁ、娘というのも、わたくし外国人の年齢とかよくわからないので、中年バツイチのジェームズ・キャグニーとギリつりあうかんじなのかもしれないけど、そうだな、せいぜいいってもアラサーぐらいのかんじなので、え?そっち?あんちゃんじゃなくて?ありなんですか?とまぁ、そのへんでそれなりのひっかかりはある(これもWikipediaでみたらこの女優さんはスウェーデン人でこのとき35歳だそうだ、ちなみにあんちゃんは29歳となってる、ただし役の上では21歳と言ってたな、なるほどガキであるという設定ではあるね)。けどそのへんは誰一人としてひっかからず見事にスルーで、まぁちょっと一瞬のラブコメ感もあり、まぁそのへんはよかった。でまぁそれはそれとしておはなしは、自警団などというのはポピュリズムで愚劣で信用がならん、個人的な信頼とか感情というのもあてにならん、まだるっこしくても理性と法的手続きだけを頼りにしないと正義が行われないよね、というようなことだったんじゃないでしょうか。

通勤電車で読む『人は不思議な体験をどう語るか』。エスノメソドロジーの邦訳書だった。

ある日、いつものようになんとなくおもしろそうな文献がないかと探していたんです…そのとき、ふと見覚えのない一冊の本のタイトルが目に飛び込んできて、どうしてもこれを買わないといけないという声が聞こえてきたんです…。みたいなことだったかどうだったか、エスノメソドロジー関連の本のリストかなにかを見ていてあれ?と思って読んでみたらポール・ドリューのところで博論を書いた人の本の翻訳だった。というわけで正統な会話分析の本。1998年に出てたというのに気が付かなかったのはなぜなのか…どうでもいいけど…。まぁ、著者の人はどうやら「超心理学」に関心のある人で、日本語版序のなかで、この本を出したら社会学方面にばかり反応があって超心理学界隈から反応がなかったことを残念ぽく言っている。まぁ、幽霊とかポルターガイストとかテレパシーみたいな話題について、「その話題はどのように語られるか」という問いに落とし込んで論じるというのは、まぁ社会学とかになるわけで超心理学そのものではなくなるわけである。なんとなくポール・ドリューさん苦労したのかな、などと思わなくはないがどうでもいい。
で、しかし、これ、モノローグの「語り」の会話分析であり、何か特異なできごとの真実味を構成するしかけの分析なので、まぁそのいみでは応用のきくはなしなのだった。たとえば先行研究としてドロシー・スミスの「Kは精神病だ」が紹介されてて、たしかにあれば、Kの「異常性?」を報告する、にわかには信じがたいことを真実味をもって構成する「語り」の分析、なので、「Kの異常性」のところを「おばけ」にすると本書のはなしにつながってくる。そういわれてみればそうで、いろいろ応用がきいて、たとえば自分が以前書いた、「自分は”いじめ”られてんねん」という報告(未遂?)の分析ともちょっとかぶってるしそのとき本書を読んでたら参照しただろうなと思いながら読んだ。あるいは本書の帯にもなってる、不思議な体験を語るときの形式「ちょうどXしているとき…そのときY」という言い方を抽出している。ごくふつうの日常的なことをやっていた、とまず言ってから、そのとき”それ”が起こった、と言う。こういう形式というか語りの仕掛けをみつけるのは面白い。ついでにいうとこれも、いじめの語りについてちょっと似たようなことを書いた覚えがある。「(1)まず、ごく日常的な場面が提示され(「 私が誰かに近づいて行くでしょ」 「音楽で実技のテストってありますよね」…)、インタヴュアーに相づちを打たせておいてから、(2)それが実は「いじめ」の場面であったこと、を語る、というやり方がとられている。」とかなんとか。まぁ、おばけといじめは似ているということなのか、あるいは違う入り口からより一般的な何かを導き出したということなのかはようわからない。

『誘拐報道』みた。映画の誘拐犯はおひとよしになりがち。

ATGの映画だというのでなんとなく録画してたのを見た。ATGというので自分的に何となく期待する前衛的なところのある映画というわけでもなかった。と思っていたがいま調べてみたらATGではなかった。ATGじゃなかったから前衛的じゃなかったというわけでもなくたんに前衛的じゃなかったというだけだろう。お話としては誘拐の始めから終わりまでというかんじ。まぁ、ふつうに誘拐の映画だった。タイトルほどには報道についての映画というわけではなかった。まぁ報道についての映画を見せられても面白いかどうかはわからないので誘拐の映画で十分である。映画の誘拐犯はおひとよしになりがち。ついでにいうと小柳ルミ子上戸彩だった。