通勤電車で読む『人は不思議な体験をどう語るか』。エスノメソドロジーの邦訳書だった。

ある日、いつものようになんとなくおもしろそうな文献がないかと探していたんです…そのとき、ふと見覚えのない一冊の本のタイトルが目に飛び込んできて、どうしてもこれを買わないといけないという声が聞こえてきたんです…。みたいなことだったかどうだったか、エスノメソドロジー関連の本のリストかなにかを見ていてあれ?と思って読んでみたらポール・ドリューのところで博論を書いた人の本の翻訳だった。というわけで正統な会話分析の本。1998年に出てたというのに気が付かなかったのはなぜなのか…どうでもいいけど…。まぁ、著者の人はどうやら「超心理学」に関心のある人で、日本語版序のなかで、この本を出したら社会学方面にばかり反応があって超心理学界隈から反応がなかったことを残念ぽく言っている。まぁ、幽霊とかポルターガイストとかテレパシーみたいな話題について、「その話題はどのように語られるか」という問いに落とし込んで論じるというのは、まぁ社会学とかになるわけで超心理学そのものではなくなるわけである。なんとなくポール・ドリューさん苦労したのかな、などと思わなくはないがどうでもいい。
で、しかし、これ、モノローグの「語り」の会話分析であり、何か特異なできごとの真実味を構成するしかけの分析なので、まぁそのいみでは応用のきくはなしなのだった。たとえば先行研究としてドロシー・スミスの「Kは精神病だ」が紹介されてて、たしかにあれば、Kの「異常性?」を報告する、にわかには信じがたいことを真実味をもって構成する「語り」の分析、なので、「Kの異常性」のところを「おばけ」にすると本書のはなしにつながってくる。そういわれてみればそうで、いろいろ応用がきいて、たとえば自分が以前書いた、「自分は”いじめ”られてんねん」という報告(未遂?)の分析ともちょっとかぶってるしそのとき本書を読んでたら参照しただろうなと思いながら読んだ。あるいは本書の帯にもなってる、不思議な体験を語るときの形式「ちょうどXしているとき…そのときY」という言い方を抽出している。ごくふつうの日常的なことをやっていた、とまず言ってから、そのとき”それ”が起こった、と言う。こういう形式というか語りの仕掛けをみつけるのは面白い。ついでにいうとこれも、いじめの語りについてちょっと似たようなことを書いた覚えがある。「(1)まず、ごく日常的な場面が提示され(「 私が誰かに近づいて行くでしょ」 「音楽で実技のテストってありますよね」…)、インタヴュアーに相づちを打たせておいてから、(2)それが実は「いじめ」の場面であったこと、を語る、というやり方がとられている。」とかなんとか。まぁ、おばけといじめは似ているということなのか、あるいは違う入り口からより一般的な何かを導き出したということなのかはようわからない。