通勤電車で読む『続・ゆかいな仏教』。続編があった。

『ゆかいな仏教』を再読したとここに書いた(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2024/05/06/195734)とき、書影を貼り付けるために検索したら続編が出ているのを見つけた。で、読んでみた。ひとつなるほどと思ったのは、極楽浄土についての疑問。前の本で書かれてたように、仏教というのはブッダと同じように「覚り」に到達して解脱することが目標で、それは自分自身で到達するしかないものであるけれど、阿弥陀仏というのはひとびとを極楽浄土に連れていくことができるってことになっている、極楽浄土というのはゴールじゃなくて、とてもいい環境なので修業がはかどって次に生まれるときに「覚り」に到達して解脱できるのだよ、ありがたや、ということらしい。しかしそんなにいい環境であるなら、極楽浄土でいいです、べつに覚らなくても結構です、という人が出てくるんじゃないかと。なるほど!そういう問いはありえるね。そしてじっさいにたぶんいま、ごくふつうのしろうとの持つ程度のイメージだと極楽浄土=ゴール、なのだよな。
あとは、キリスト教だと神がキリストを地上に遣わしたのが2000年前の一度こっきりなのはちょっと少なくないか?なんでもっとしょっちゅう出てきてくれないのか?また仏教だと、人は誰も仏性をもつといいながら、実際に覚ったブッダから次に覚る弥勒菩薩まで五十六億年ってのはちょっと間が長すぎないか?という疑問のくだりは笑えた。なるほどキリスト教でいえば、次にキリストが出てきたらそのときは最後の審判なわけなのですべての歴史が終わっちゃうわけで、つまりキリスト教の時間感覚というのは、キリストが出てきてから次にキリストが出てくるまでの「宙づり」の時間を生きているということになって、しかも「時は迫れり」ってわけでいつキリストが再び現れて最後の審判の日が来るのかわからない、間近かもしれない、という急迫の中で生きているということだよと。他方、仏教だと、まぁ五十六億年はけっこう遠いにせよ、覚りを目指して修行の道を歩むってことが重要なんで、歩むぞ、歩んでるね、ってなりさえすればまぁ100年でも100億年でもまぁおなじことだと。まぁね。