テレビで『二代目はクリスチャン』やってた。ひさびさに見たらよかった。

二代目はクリスチャン [DVD]

二代目はクリスチャン [DVD]

以前も見て、まぁよかったという記憶はあったので、テレビでやってたのをなんとなく見始めたけれど、おもいのほかさらによかった。映画的にどうこうとかそういうことはどうでもよくて、志穂美の悦っちゃんがよかった。今の人にわかりやすいようにたんじゅんにわかりやすくいいますと、「ごくせん」の仲間由紀恵に大江アナを重ね焼きしたかんじ。で、つかこうへいなので、「ごくせん」を100倍くらいキツくして、「必殺」より陰惨な復讐劇を設定しつつ、基本的には80年代角川映画、ってかんじ。

追記
「復讐劇」と書きながら、違うんだけどなーと思っていたのだけれど、他の人の感想を見ていて、これだ、と思ったんだけど、「怒り」ですね。
復讐、というと、私怨みたいに聞こえるような気がする。「怒り」というと、「悪」に対する怒り、というかんじになる。
ヤクザ映画がそうで、「必殺」なんかもそうなのだけれど、悪いやつらにひどいことをやられてやられて、不条理に抑圧されまくって、最後に、もはや我慢ならん、と立ち上がる、というかんじ。これは「復讐」ではなくて「怒り」ですね。
で、そういう枠組みが、つかこうへいの作風とどう関連してくるか、というのと、キリスト教というのとどう関係してくるか、というのと、あると思う。
つかこうへいって、高校生の頃にあれこれ読んだけれど、不条理な抑圧と逆転、みたいな構図を、しかも戯画的になるまで容赦なく徹底する、と、不条理な戯画から真実が!!みたいなことだっけ?
いっぽう、キリスト教というのも、受苦、とか殉教、とかというのがあるわけで、そのへんをつかこうへいが、ヤクザ映画と重ね合わせた、ということではある。しかしそこで、「怒り」と「赦し」というのはつじつまがあうのか?というところがもんだいになってくるわけで、つまり、この映画で最後に志穂美の悦ちゃんは、信仰を捨てたのか、クリスチャンでなくなってしまったのか?というところが、ひっかかりになってくると思う。でも、たぶん、クリスチャンでありヤクザであるというのが同時に成り立つ、というのが、つかこうへい的な不条理な戯画的真実であるはずで、そうでないと死んでいったヤクザたちが浮かばれないわけで、このおはなしの意味がないような気もするし、そもそもキリスト教だって、神の子であり同時に人である、霊であり肉である、という不条理さがあるところがキモだというふうにもいえる。
蛇足ながら、「怒り」というと、キリスト教だと、よくわかんないけど神が怒る、ということなのかな。ジャンヌ・ダルク、などというのが頭をよぎったりもするけれど、個人的な動機で戦うのでなくて、霊的な力の顕現として戦う、という理屈はあるのかもしれない。