通勤電車で読む『味覚旬月』。ぶってるわよねえ。

味覚旬月 (ちくま文庫)

味覚旬月 (ちくま文庫)

某日、学校帰りの商店街の古本屋で購入、通勤電車でぼちぼちと何日か読んでいた。
おなじ著者の『味覚日乗』はたしか読んでいて、それはたしか歳時記的なことだったのでそのときはさほどとも思わなかったのだけれど、この本は、季節ごとにはなっているけれどもう少し長い目のエッセイで、著者の文体というのがはっきり出ていた。えーと、読みながらどう思ったかというとですねえ、「いやぁだ、ぶってるわよねえ」というかんじ。「ぶってる」っていう言い方がどのくらいつうじるかわからんけれど、まぁ、カマトトぶってる、とか、イイコぶってる、とか、とりすましてる、とか、そんな意味で「ぶってる」わよねえ、と。たぶん、「1924年生まれ、聖心女子学院卒業」、母親と同じ道を歩んだ料理研究家、という著者の、階級的&時代的なものが出てるかと。

当節、次のような事実を知る方は少ないと思うが、戦後GHQ(連合国軍総司令部)は講和条約が成立するまで、元財閥の管理職にある者の年俸を五万円と定めた。現代と貨幣価値が異なるとは言え、一ヶ月四千円余で赴任先(父は会社の独身寮の六畳一間に起居)と留守宅を賄い、その上姉弟三人は私立大の学生であった。
母は料理で内職を続け、これまた思えば共働きのはしりであったかもしれない。二十二、三年ころのわが家の家計事情は、四百グラムのひき肉を買えば、五人分の夕食と翌日の三人分のお菜を工面したものであった。

というのがどうやらとっておきの貧乏話であるようで、それで自分は当時結核の療養中で、そこに名古屋の大成建設の「おじ様」が「むろん天然の」うなぎのかば焼きの折りを持ってきてくれた、というのが話題で、つまり

おじ様という方は人が願うより先に声をおかけになる。「何か困っていないか、して欲しい事はないか」と、受け入れる用意のあることをお示しになるのが常だ。
人は、願ってしていただくのと差し出された手にお願いするのとでは、同じ事をしていただいてもうれしさが違う。

等々、という、まぁ、美談だか教訓話だかにつながるわけで、まぁ人から物を貰ったという話題のときにこれだけごく自然に上から説教口調になれる人間をあまり見たことはないわけで、まぁわたくしには異世界だなぁすみませんねと感じながら読む。
あるいはべつの文章で、しれっと、

今、愛知・岐阜・三重ではどの様なハレのごちそうをなさるのでしょうか。私が名古屋に住んだ四年間は戦時中でしたから、もろこと松茸の押しずし、これにおこしものといい、米粉でこねて型で抜き、ところどころ色を入れた鯛とか − このようなものしか覚えていないのです。

とかまぁそういう本を、ありがたく通勤電車で読んでたわけである。