風邪の中の長風呂の中の読書。『乳と卵』。

乳と卵(らん) (文春文庫)

乳と卵(らん) (文春文庫)

風邪気味で微熱らしく倦怠感があるのをぶっとばすことができるか、休日の朝っぱらから長風呂をしてみる実験で、積読状態だった文庫をたずさえて浴室へ。で、読んだ。
語り手が大阪出身東京在住女子で、大阪から姉とその娘が訪れてくるという話。姉の娘は母親(両親離婚のため母親と二人暮らし)ともう半年も口をきいていなくて、語り手とも口を利かなくて筆談でしゃべる。まぁ反抗期といってもいいし、まぁ、語り手含め三者三様にアイデンティティ?の不安定さを抱えていると言えなくもない様子。姉は離婚して娘を育てるために場末のスナックでホステスをやっていて、40近くでもうくたびれたようす、で、東京には豊胸手術をしに来た、というのだから、なんていうか、いかにも不安定だなあと。あいかわらずの川上節で関西弁のしゃべり言葉の饒舌文体でもって、女性性への違和感とか身体性への違和感とか、娘の母親に対する違和感とか、まぁ自分が母親のような女性の身体を持って母親のようになっていくことに対する違和感とか、その母親がまたいまさら豊胸手術なんかしようとしていることへの違和感とか、まぁそういうかんじの違和感オンパレードを書きまくっているので、まぁあいかわらずの川上節だなあというかんじ。娘は筆談なので言葉が文章で出てくるし、また、小説冒頭から、娘が一人で書いている日記風の文章がところどころさしはさまれてくる。おしむらくは、その娘の文章の文体も川上調、小説の地の文章や語り手の心内で発せられる感慨や考察の文体も川上調、ぜんぶおなじなので、ちょうど村上春樹の小説で老いも若きも男女問わずすべて村上文体でしゃべったり書いたり思考したりしているのを読むときと同じような、興ざめ感は、まぁなくはない。ともあれ小説は、筆談でしゃべる娘の文章で開始されるわけで、ところでそうするとこれは予測として、この小説が終わるまでこの娘は筆談でしゃべり続けるのか、それとも小説の途中でこの娘はついに声を発するのか、どっちかだろうと予測はつくわけである。で、もしこの娘が声を発するとしたらそのとき、それによって母親や語り手を含む三者の間にはりめぐらされた壁を一挙に乗り越えてコミュニケーションのすれ違いやアイデンティティの違和が爆発的に変容する、みたいなクライマックスが演出されるだろう、ということも、あらかじめ予測しつつ読むわけである。