以前、職場の学生さん向けの図書室の本棚で見かけて、おや、と思って、手に入れてたのを、読んだ。著者の人は国際教育とか
日本語教育とか?の人で、ある研究室の大学院メン
バーど
うしの中で留学生が日本人学生と人間関係をつくっていくところを会話分析で分析しました、という本。なのだけれど、読んでて途中から、これはどのくらい会話分析なのか?会話の書き起こし要らなくない?という気もしてくる。最初に4月の研究室新歓飲み会の「自己紹介」場面の各人の「自己紹介」のくだりのやりとりが書き起こされていて、そこでどんな「成員カテゴリー化」が使われてどんな「フェイス・ワーク」が使われているかが表にまとめられている。で、次に3週間ほどたって院生室内で「外国人研修生に日本語で上手く自己紹介をさせるにはどうしたらいいか」という話題の雑談があって、そのやりとりが書き起こされている。それで、その雑談の参加者各人がそれぞれ「面白い自己紹介」をどんなふうに考えていたか、またそのとき自らをどう「自己カテゴリー化」して、またその場に参加していた留学生たちをどのようにカテゴリー化していたか、が表にまとめられている。でまたこんどは、いくつかの時点(4月と7月と9月と12月)での会話が例に出されて、そこで「褒め」と「自己卑下」という「フェイス・ワーク」がどのように使われて、またそこで自分と相手をどのように「成員カテゴリー化」していたかが表にされたり、そこでどのような「共−成員性」が構築されたり利用されたり組み替えられたりしていたかが分析されたりしている。それからまた、別の会話が例に出されて、こんどは「遊びとしての対立」(冗談関係)がどのように構築されているか、表にまとめられている。うーん、そういうわけで、これ会話の書き起こしがどのぐらい要るのか、表だけでいいような気もしなくはなくて、ここでいう構築プロセスというのもどういう意味でプロセスなのか、また通時的というのもどういう意味で通時的といえるのか、もひとつわからなかったかんじはあった。