『新・目白雑録』。連載エッセイの2年前の話題が古く感じられないのは、それが50年以上前に書かれたことやつい数年前に起こったことの忘却の上になりたった話題だから。

新・目白雑録

新・目白雑録

例によってAmazonで、出るぞと予告されて待ってたのが、出たようだと知り、先日、買いに走って大型書店を何件もはしごしたけれどなぜか売ってなくて、店内の検索機では「店頭在庫なし」が連発だったのだから、さては金井美恵子の新刊がたちまちにして市内から消えるほど飛ぶように売れたのか、と一瞬思ったけれど、たぶんやはりちがうわけで、自分が第一選択肢として歩くエリアでは大型書店たちでさえ金井美恵子をあんまし仕入れないのじゃないかという非文化的現実が当たってるんだろうと思って気持ちが暗くなってくるわけなのだけれど、そしてそんなことをぐちぐちと思いながら書店の棚を見ていると必ず平積みになっているのが少し前に出てた松田青子『ロマンティックあげない』で、いやまぁたしかにそれも気になってたし買おう読もうと思ってたけれど、なんか金井美恵子がなかったから松田青子を買って帰りました、じゃあよろしくないじゃないですか、という倫理観が働いて、その日は何も買わずにぐちぐちと帰宅したのだけれど、まぁしかし後日、別のエリアの大型書店(ここに行けば結局たいてい買える)で無事発見、そうなればついでに松田青子もということで、二冊購入に及んだわけである(ちなみにもしそこのエリアの大型書店たちになかったら、さらに別のエリアの、「ここに行ったらそりゃ金井美恵子を置いてるかもしれないがここで買ったら負けな気がする」ようなセレクトショップ的本屋に行くことになっただろうし、そこでもなければ、まぁいたしかたなしでAmazonで注文するということになっただろう)。
それで、これは連載エッセイの2年間分をまとめたエッセイ集で、シリーズになってて(「目白雑録」の検索結果 - クリッピングとメモ)今回は第6集にあたる。で、ことの性質上、おはなしは2年以上前の話題からはじまって、なんかワールドカップサッカー日本代表がブラジル大会に出場を決めた試合のときに渋谷駅前で取締りをやった「DJポリス」というのが最初のとっかかり。そこから話がじょじょに横滑りしながら連載5回分。それから、猪瀬都知事辞任というのと佐村河内なんとかというのを重ね合わせつつ「裸の王様」という寓話から開高健に、また頂点に上り詰めた者が失墜するという通俗的イメージから、というか佐村河内なんとかから直接の連想で、『砂の器』の映画と、それから原作の小説のほう(をわざわざ買い求めてはじめて読んだということで)に、話は横滑りに横滑りを重ねつついつまでも増殖し続けてこれで連載7回分。「DJポリス」と「佐村河内」で都合1年間続いてしまうわけで、これは異様なことではあるのだ。なのだけれどそれがおもしろいわけだし、そもそも2年以上前の話題が今読んでおもしろいのは、それが1974年の映画や1960-61年の小説を呼び出すからで、佐村河内の話題で盛り上がっていたときの世間は『砂の器』を無意識には想起していたかもしれないにせよ想起してしまったことを意識してなかったという意味ではやっぱし忘却していたわけで、そしてさらに1974年の映画版は1960年の原作を忘却させているし、等々、起こったことや書かれたことを忘れてしまっているからなわけで、つまり、「新しい」話題なんかほんとははたしてあるのだろうか、「構造はやはり何も変わらない」ではないか、というわけである。それで、じゃあ、というわけで開高健が読み返され、松本清張が読み返され、数年前の『現代思想』の松本清張特集で『砂の器』を論じてた執筆者たちの多くがほんとに松本清張の小説『砂の器』をちゃんと読んでたか怪しいものであることが読み返され、ついでに大岡昇平が連載で松本清張をこれみよがしに読み飛ばしていたことが読み返され、まぁようするにちゃんと読むこと、読み返すこと、ちゃんと「読まない」こと、等々がここで読まれるわけで、まぁそれが、読みでのあるところ。