通勤電車で読む『書店風雲録』。

書店風雲録 (ちくま文庫)

書店風雲録 (ちくま文庫)

80年代「西武・セゾン文化」の発信地であったような、書店「池袋リブロ」の店長だった人が、当時を振り返って書いた本。さいしょのあたりは、そもそも書店の仕事とはみたいなところの説明を理解しないとわからないので、あまり風雲録っぽいかんじがしないまま読んでいたし、まぁこっちは世代的には合致していても地方の人だったので、東京で何が起ころうが関係ない、東京ローカルニュースの思い出話だなあというかんじではある。個性派の店員の人がトガったコンセプトで棚を作った、みたいな話も、まぁ出てくる80年代ニューアカ的本たちがずらずらならび、まさにそれらの本をこの棚で仕掛けたことで80年代ニューアカ − 大学の外で花開いた流行としてのニューアカ − の現場になった、というのはわかるのだけれど、まぁ今の目から見てというか、まぁ当時でも地方の目から見てということでもいいけれど、その現場で流行の渦中にいなかった者の目から見れば、それはようするに「流行」の部分で、しかしやがてその流行が去った時にも重要性が変わらないものこそが重要なはずで、たとえば地方にいればニューアカの渦中のお祭り騒ぎでの興奮はなかったわけで、単純にあれがいいらしいこれがいいらしいという情報として流れてくるものに従って本を読む、というのがニューアカに対する態度であって、そうであってみれば、読んでみたけれどわかんなかったとか、わかったとか、重要だとか重要でないとか、そういうスタンスで接してたわけである。たぶん、時代の空気感からは距離があったのだろうし、ぎゃくにいうと流行り廃りじゃないものとして受容していたというところもあるかもしれない(いくらなんでも、フーコーなりドゥルーズなりという人たちの60年代や70年代に書いたものが、80年代日本の流行現象としてだけ存在するわけでもないだろうし、それまでにも値打ちはあっただろうしそのあとも値打ちはあり続けるだろう)。なので、いま、その本棚の、妙に高揚して(今の目から見たら妙に軽薄に混濁した)、まさに当時の流行という空気感を感じさせるようなラインナップを紹介されても、へぇ、というかんじにはなってしまうわけである。まぁ、それなりに面白くはあったし、まぁニューアカ界隈の人たちの80年代回顧ばなしのあれこれの本の中で言えば、なにせ書店員というのは基本的にまじめに働いている人たちで、くだらない人脈自慢ではない現場の苦労話とかがたくさんあって、共感しながら読むわけだけれど。
なのだけれど、本の終わりのほうで、「バーゲンブックフェア」の騒動のはなしがでてきて、これは風雲っぽくておもしろかった。
あと、西武百貨店の当時のトップであった堤清二という人の人物評について。

私には芦野が最後に付け加えた「堤清二」評が忘れられない。「彼には潜在的に破滅願望があるんだ、成功に成功を重ねて、あと一歩、というところでこの願望が姿を見せた。だけど実際に破滅するのは周囲の人間なんだよなあ」 堤清二はアール・ヴィヴァンを産み、育て、そして見放した親、である。リブロで育ち、出ていった今泉や中村、そして私たちも一様に彼にアンビバレントな思いを抱いている。堤清二が去ったあとの西武百貨店における「文化」の位置を思うと、その感は一層深い。引き継いだ経営陣には「文化は親の仇」だったのだろう。

あと、
文庫版のあとがきの中で言及されてるエピソード。
この本の著者の人はいまリブロを離れてジュンク堂で働いてる。で、この本がリブロで売れてるところに、リブロの店員さんがポップをつけていると。そのポップの文面を、著者の人はあとがきで全文紹介するし、それを読んでおもわず一瞬、目頭にくる。