粛々と通勤電車で読む『新自殺論』。大村英昭先生の新著。

たしか大学院のM2のときに大村英昭先生が集中講義でいらしたんだったと記憶する。ゴフマンの話をされて、たしか落語のような口調とあいまってすごくおもしろかったという印象の記憶があり、また、ゴフマンの邦訳書についていろいろ言っておられたような記憶がある(まぁ翻訳についてというか…「出会い」って何なんだ、とか…)。ジラールの模倣欲望についても話しておられたような覚えもあり、自分はレポートでジラールについてなんか文句を言ったような言わなかったようなM2的イキりを発揮したようなものを書いて提出したような覚えもある。ともあれ、大村先生は、面白くてすごく切れる、恐ろしい先生、という印象なんである。
それで、おしくも亡くなられたのだけれど、この夏、大村先生の新著というか、大村先生の呼びかけにもう一人の編者阪本先生が応えて、ほぼ大村先生のアイディアを出発点として阪本先生が展開するというかたちで完成されてるのがこの本。大村先生の書かれた章もたくさんある。
で、デュルケームの『自殺論』が出発点で、ボードロ&エスタブレの批判的展開を介し、さらにそこからゴフマンの「面子(フェイス)」概念を介して、つまり、デュルケーム自殺論をゴフマンの「面子」を経由して現代に生かす、という筋書き。
で、感想としては、途中までは、つまりデュルケームの『自殺論』を読むところまでは、いいなあと思って、つまり、『自殺論』にはなぜか変な読みばかりが教科書にまで一般的になってるところを、ふつうにちゃんと読んでて、なるほどそうだよね、と思いつつ読んだ。それでしかし、途中から、つまり、デュルケームの自殺論を現代にどう生かすかみたいなはなしになったあたりから、自分的なあれと話が合わなくなってきて、だから、ゴフマンの「面子」概念を使って、現代の自殺を「面子ロス」によるものとするアイディアには、乗れなかったわけである。つまり、まぁそういえばそう言えるけれど、まぁなぁ、というぐらいの湯加減。たとえば、失業者に自殺が多い、これは失業者が面子を失うからなのだ、という説明は、そういえばそう言えるけれど、新しい説明がなされた感じが薄い等。
自分的には『自殺論』というのはけっきょく自殺についての論じゃないよ、自殺をインデックスとして社会の組織化について論じたものだよ、という理解。それは、薬師院さんのデュルケーム『自殺論』読解の影響だと思ってる。

今日、デュルケムの『自殺論』に対する一般的な評価の大枠は、次のような記述に代表されているように思われる。
(…)
…この場合、『自殺論』の膨大な記述は、それらを通底する層において、次のような基本図式に準拠しているということになろう。
 
 【図1】
  社会的要因 → 個人 → 自殺行為 / 年間総和の統計値=自殺率
   |                              |
   →→→→→→→→→→→ 結果的に規定 →→→→→→→→→→

しかし、(…)

というかんじで、ようするに【図1】に準拠するような読みは、ちがうでしょう、というふうに言うわけで、つまり、「自殺率」を規定する「社会的要因」を数え上げても、あるいはそこに何かを - たとえば「面子ロス」を - 付け加えても、同じパラダイムにとらわれてるよね、というふうに読めるわけである(薬師院さんはそこで、本書の援用してるボードロ&エスタブレの『自殺論』理解も、参照しつつ同断だとしてる)。
また、大村先生が、自殺の例として「いじめ自殺」をあげて、それを、正当にも「愛他主義」(と「宿命主義」)に関連付けているところに共感しつつ、自分も以前そんなことを書いたり学会発表したりしたなあと思い出したりしてた。
それはまぁ、世代、ということで、大村先生のものを読み、また集中講義を受け、またそこから自分はエスノメソドロジーのほうに行きたいと思って、じゃあ何をどう考える、とか、また薬師院さんのデュルケーム論を読み、そのうえでデュルケーム=ゴフマン=ガーフィンケルの線で何が考えられるか、みたいなことをぐじゃぐじゃいいつつ大学院生時代を送っていた世代なわけだから、まぁ、この本は、なにか懐かしい、しかしそこから自分はなにか別の一歩を進めようとしていまに至る、みたいな、そういうかんじが、個人的に、したわけである。まぁそれは個人的なバイアスというもので、この本をこの本として読むと、もちろん理にかなった論を展開しているのだけれど。
でも、うーんやっぱり、大村先生が薬師院さんの、『ソシオロジ』『社会学評論』の論文をどう読まれたのだろうか、と気になるし、また、もしなにかのまちがいで石飛のいじめ問題についての論文を読んでいただけるようなことがあったらどう読まれただろうか、と夢想してしまうな。

薬師院仁志(1998)「研究ノート 『自殺論』の問題構成 反常識の社会学」『ソシオロジ』43(1)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/43/1/43_73/_article/-char/ja/
 
薬師院仁志(1998)「自殺論の再構成 フィリップ・ベナールによる『自殺論』の解釈について」『社会学評論』49(1)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/49/1/49_1_42/_article/-char/ja
 
ついでに
石飛和彦(2015)「研究ノート:「いじめ問題」にみる教育と責任の構図・補遺(2) - 「いじめの論理構造(2)-排除について-」(日本教社会学会発表資料)」『天理大学生涯教育研究』no.19
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3943/