『未来の戦死に向き合うためのノート』読んだ。おもしろかった。きわどそうなテーマに敬遠せずに著者を信用して読むべしの本。

未来の戦死に向き合うためのノート

未来の戦死に向き合うためのノート

教育社会学が専門である井上さんが、以前に『「知覧」の誕生』に論文を寄せていて読前は不思議に思っていたけれど読んでみたら面白くて納得したものだったが、
通勤電車で読む『「知覧」の誕生』。よかった。 - クリッピングとメモ
今度は、そのラインからの発展で一冊にまとまった本が上梓されたというのを、Twitterでなんとなく見かけながら、これも読前は不思議に思っていたけれど読んでみたら面白かった。
全体が5章構成で、おおまかには3,4章が『「知覧」の誕生』所収論文を踏まえて、「特攻」が自己啓発(「活入れ」というキーワード!)の文脈で受容されている近年の動向を「記憶の継承/遺志の継承」論(と、やはり「戦中世代の退場」という契機)で読む、というパート。それにさきだつ1,2章は、「「戦死」に向き合う」、ということをテーマに、自衛隊とか安全保障法制とかの具体的なはなしと、ゴジラ論とをいったりきたりしながら、「戦争はいけない」(そりゃそうだ)とか「戦死はあってはならない」(これもまたそりゃそうだ)とか言うことによってその地点で私たちが思考停止してしまうことによって戦争(というのはつまり結局それによる「死」)を思考から排除してしまってるのではないかという問題提起(それから、そうした思考停止がそろそろ限界に来ていて私たちの思考に「戦死」が、「不気味なもの」として、ゴジラとして、回帰しつつあるじゃないか、という指摘)をしてるパート(たぶん「祖国」「同胞」という語彙については、距離の取り方に幅があるんじゃないかなあと思うので、もうワンクッション説明があってもいいと思った。たとえば日本国内の議論だけでなく他国の同様の議論を補助線にできないか、等。あとやはり「自分の戦死の可能性」のはなしにはしないよ、というあたりも含め)。で、5章は、一連の研究にたいするこれまでの反応への応答パート。
で、面白かったので、これは誰の書評を読みたいかなあと思いつつ読んでいた。で、自分的には、やはり自分の問題関心からして、『知覧』本のときにも思ってTwitterでそのときも書いたけれど、やはり「いじめ」の遺書の効果やその文脈について想起しながら読んでた。別の言い方をすると、この本で、自分なら参照するなあと思ったのがデュルケーム『自殺論』の「集団本位的自殺(le suicide alutruiste 「利他」的自殺?)」のくだりで、また人から人へ継承される「記憶」というものが問題になるにあたっては前近代/近代の時間性の違いに言及したくなるなあと思っていた。本書ではそのへんは、内田樹経由のレヴィナスの「贈与」論(と、加藤典洋経由のフロイト「不気味なもの」論?)がカバーしているのかな、と思いながら読んでいた。で、自分的には、「いじめ自殺」はデュルケームの「集団本位的自殺」にあたり、つまりいじめ問題は近代の装置であるはずの学校に回帰した共同体の現象である、そこでさらに90年代的な学校=共同体=居場所的ないじめ現象/処方と、2000年代以降の閉域解体=オープンでシームレスなネットワーク的ないじめ現象/処方とのちがい、というモチーフで考えたりちょっと書いたりしてて、そこで「いじめ遺書」の効果と文脈、というのが問題になってくるだろうと。そうして自分の関心に引きつけながらまぁ読んでた。
それはそれとして、この本、まぁタイトルを一見して、やっかいそうできわどそうなテーマに見えるけれど、読んだら極めてクリアで面白いので、臆せず読むべしの本。