通勤電車で読む『エコ論争の真贋』。環境の科学の専門家の人が書いてる妥当っぽい落ちの本。

エコ論争の真贋 (新潮新書)

エコ論争の真贋 (新潮新書)

学生さんにすすめている新書本を読むシリーズ。で、この本、もと環境庁技官でいま大学教授のひとが著者で、リサイクル、温暖化、生物多様性みたいなエコ系の話題について、その筋の専門家の目でちゃんと科学的にバランスよく、じっさいのところを書きますよ、というていの本。で、まぁそんなもんかな、という妥当っぽい感じの落ちになっていて、リサイクルはやるべきだし温暖化対策はすべきだし生物多様性はまぁむつかしいところだけど保護すべき、というかんじ。
なので、痛快なかんじの本ではないけれど、まぁバランスよく書くとそうなる。
で、地球温暖化、である。薬師院さんの『地球温暖化論への挑戦』の読者は、この本を読んでどう感想を持つことになるか、ということなわけで、
地球温暖化論への挑戦

地球温暖化論への挑戦

たとえば、地球温暖化マフィアの御用学者がまたぞろ護教論を書き散らしている、と、不信の目で全否定するか、というと、まぁ、そういうのもちゃうやろなと思う。もちろんこの本は、IPCCの報告書、というのを基本的にもとにしてその限りで確実性がある程度高そうなことを確認しているので、IPCCがそもそも信用できない、みたいな陰謀論からすれば、温暖化プロパガンダの書のひとつ、ということになってしまうだろうけれど、そらそんなこといったらプロパガンダでないものがなくなってしまう。で、じゃあ、『地球温暖化論への挑戦』のほうがトンデモ陰謀論デマゴギーだったのか、というと、そうでもないだろう。ほかの「温暖化批判」本はともかく、『地球温暖化論への挑戦』という本は、基本的に社会科学の本で、そのラインは基本的に踏み越えてないんである。なので、温暖化についての自然科学的な説明やそれに対する疑問については、あくまで非専門家の一般市民としてあれこれ言っている。そして、「太陽活動の影響」や「水蒸気の温暖化効果」等々、についての見積もりが、どのくらいなのか、ということについても、疑問を呈するところぐらいまでであの本は止まってた(はず)。なので、この本で、不確定ながらこれこれの分だけ見積もれる(人為的な二酸化炭素温室効果のほうがずっと大きい)というふうに書いてあれば、ああそうですか、となって、それはそれでよかろうというかんじ。「シミュレーション」という手法への不信については、もちろんそんなことを言うと地球環境の研究なんかできなくなってしまう、それこそちゃぶ台をひっくり返す話なんだけれど、これは、まぁ一定程度あたまの片隅に置いとくぐらいは重要だと思う。そしてそれより、社会科学として重要なのは、地球温暖化というのが純粋な自然科学的現象ではなくて政治経済問題なのだってことで、やはりそのことに注意を喚起したのは社会科学の正当な役目だったでしょうとおもう。地球温暖化危機説が、ベタな次元でいえばたとえば原発推進にいいように利用されてたわけで、それは社会科学的な次元の現象だ。自然科学の知と社会科学の知がどのように接合するか、それがまた政治や経済とどう絡み、それがたとえばのはなし民主主義なりなんなりという枠組みの中でどう動いていくか、みたいなことはあるわけで、それはやはり、社会科学が問題とすべきことだ。まえにも書いたけれど(http://d.hatena.ne.jp/k-i-t/20080128#p1)、そういうのを知識社会学の問題として、また、民主主義論の問題として、探求していく、というのは、ありだし、いろいろ考えるべきことはあると思うんである。