通勤電車で読む『ポスト・モバイル社会―セカンドオフラインの時代へ』。研究会のためのおさらい。

ポスト・モバイル社会―セカンドオフラインの時代へ

ポスト・モバイル社会―セカンドオフラインの時代へ

土曜日に研究会があるのでおさらい。
 
・「ポスト・モバイル社会」とは? ← 「モバイル」というのは移動可能ということで、モバイルなデバイス、とか、モバイルを活用する行動とか生活様式、とか、そういう「人」の側の形容だと思う。なので、「モバイル社会」というのは、モバイルなデバイスやそれをつかった行動とか生活様式が特徴であるような社会、というぐらいの意味だろうと思う。そうすると、「ポスト・モバイル社会」というのは、「”ポスト・モバイル”社会」なのか「ポスト・”モバイル社会”」なのか、とか、そうなると、社会のどういう性格を言い当てようとしている言葉なのか、とか。
・「セカンド・オフライン」とは? ← 「オフライン(/オンライン)」という言葉でなにをいいあてようとしているのか。人の側の状態か、あるいは、システムの側から見て「人間がオフライン(/オンライン)であることをデフォルト状態と定義するようなシステム」ということか。また、「セカンド」ということは「ファースト」や「サード」や5thや10thがある、といういみにおける「セカンド」なのか、「セカンド」というのは何を言い当てようとしている形容なのか。
・社会とかシステムについての形容であれば、「ユビキタス」(神の遍在、みたいな含みで)とかの言葉が自分的には好み。でも、この本では、ユビキタスのことを言いたいのではないようだ。たぶん、社会の側というよりは、人の経験(ux、というやつでしょうか)の側から、「ポスト・モバイル」とか「セカンド・オフライン」という言葉によっていろいろな事態を言い当てようとしているようにみえる。そうすると、それはたとえば「ユビキタス」という言葉で言い当てるのとくらべて、この社会のどういう別の事態を切り出すことになるのか。

これも通勤電車で流し読んだ『信じない人のための〈宗教学〉入門』。

信じない人のための〈宗教学〉入門―現代社会と宗教問題の本質 (サンガ新書 41)

信じない人のための〈宗教学〉入門―現代社会と宗教問題の本質 (サンガ新書 41)

Twitterかなにかで、よさげであるといううわさを目にしたか何かで、それではと読んでみた。いちおう対話篇のようになっていて、著者の人を代弁する「一Q禅師」なる変人に宗教の話をしてもらう、という構成。5つの章はそれぞれ、宗教につきものであるようなあれこれ(霊魂、神仏、信仰、救済、宗教そのもの)を、抽象的にではなく具体的な次元で(それぞれ、からだ、ことば、しつけ、くらし、れきし、と平仮名で表記される)捉えて考察すべし、ということになってる。宗教は「霊魂」を扱うといわれているけれど、そういうふわふわしたものを考察するのでなく、それぞれの宗教でからだ(そこには霊的なものと肉的なものが混在している)がどのように扱われているかを観察したほうがよかろう、おなじく「救済」を論ずるよりはそれぞれの宗教がどのように生活様式の中に組み込まれているかを観察したほうがよかろう、というぐあい。そういうスタンスは宗教社会学だろう、と思うのだけれど、まぁ、著者の人はかならずしも宗教社会学というのを押し出してるわけではなくて、まぁ、宗教学の人であるらしい。まぁいずれにせよ、おもいのほかバランスのいい、学生さんに勧める新書本としてはアリな宗教学入門と思った。

『デスマーチはなぜなくならないのか』読んだ。

Twitterで、なんか本にものすごく怒りまくっている人のツイートというのをみかけて、なんかプロジェクトマネジメントに関する本らしく、また著者のプロフィールによると専門はエスノメソドロジーだということなのでこれは、と思ったのだけれど、なんか怒っている人は「狭い範囲のインタビュー結果から・・・したり顔で語る展開」とか言っているので、おやおや、それは読んでみなくてはと思い、学校帰りの本屋さんで買って読んでみた。でまぁ、読んでいくと、まぁ桜井先生のご本など参照されててどちらかというと「対話的構築主義」なかんじがありありと、まるで文体模写のようにありありと出てきて・・・

p137「そのような気づきをもとに、あらためてAさんとのインタビューの記録を振り返り、見えてきたのは、ただソフトウエア開発者の社会に独特の常識に殉じただけの類型的行為とみなすことなどできない、一人の人間としてのAさんの、たくましくしたたかとさえいえる実践です。」

そしてしかし、そのあとで一章を設けて、ガーフィンケルエスノメソドロジーの説明、のようなものが出てきて、つまりこの本はエスノメソドロジーなのであるということで、そして結局のところ、デスマーチはなぜなくならないのかという問いに対しては、「あたりまえ」を問い直さないとなくならない、ということになっている。