ディックの読者なので占いとか好きだ。

↑上記エントリのつづき。
ちょうどきのう、ぼんやり考えていたのだが、自分はけっこう占いとか好きだし気にするほうだ。
で、人に「占いとか好きだ」というと、どこの占いが当たるとかどうこう、みたいな話にされて、それはぴんとこない。
占い、というのは、占い師が言っていることではなくて、「何者か(神、なり、天体の運行、なり、なんなり)」からのメッセージである、という理屈である以上、
どこそこの特定の占い師であるとか、どこそこの細木某であるとか、は、せいぜいメディアのひとつに過ぎないという理屈であるはずなわけで、
もしそのメッセージを発している「何者か(神、なり、天体の運行、なり、なんなり)」が本気でメッセージを発しているならば、媒体はなんでもいいはずだ、という理屈。
たまたま朝、出掛けにぱっと見たテレビの星占いとか、ふと覗き込んだ湯飲みの中の茶柱とか、そういうものが媒体にならないはずはない。
テレビの星占いなんて、適当な思いつきでスタッフか誰かが書いているのだ、というにせよ、もし仮に「何者か」がメッセージを発するとするならば、そのどっかのあんちゃんの適当な思い付きを「通じて」メッセージを伝えるということがある、という理屈である。
そういう考え方は、P.K.ディックの読者であればわかるだろう。
ディックは、コインを使った「易」とか、テレビのなんでもないコマーシャルなんかから、あれこれとメッセージを受け取っていたわけで、それはまぁ、パラノイアックな症候でもあるのだけれど、
理屈としてはとても正しいと思う。
現代のこの世界の中に、もし、「何者か(神、なり、天体の運行、なり、なんなり)」が出現するとしたら、東洋風のお香を焚いたフワフワした煙の中とか水晶玉の中とか古代風の儀式の最中ではなく − すくなくとも、そこだけではなくて − もっと端的に、もっとチープでジャンクなところに出現する、という理屈。
ディックのインタビュー集が絶版なので小説で読むとすると、たとえばこのあたりかな。

ヴァリス (創元推理文庫)

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ユービック (ハヤカワ文庫 SF 314)

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高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

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どの作品でもにたようなものだけれど。