神仏に「すがりたい」54%…読売世論調査

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050901-00000116-yom-soci

国民の4人に3人が特定の宗教を信じておらず、宗教を大切だと思わない人も多数派を占めているが、「神や仏にすがりたい」と思ったことがある人は過半数に上る――。
このような宗教に関する日本人の意識が、読売新聞社の全国世論調査(面接方式)で明らかになった。
 調査は8月6、7の両日に実施。
 「何か宗教を信じているか」と聞いたところ、「信じている」23%に対し、「信じていない」は75%。「宗教は大切であると思うか」でも、「大切」35%に対し、「そうは思わない」60%だった。
 その一方で、「神や仏にすがりたいと思ったことがある」は54%に達し、「ない」44%を上回った。宗教を「信じていない」人の中でも、「すがりたい」は47%だった。
(読売新聞) - 9月1日23時48分更新

思うに、「**を信じる」という動詞の用法のもんだいが大きいのだ。
例文:「私は1+1=2という計算を信じる」
例文:「私は魚屋とは魚を売る店のことだということを信じる」
等々
「**を信じる」という動詞を使うと違和感がある。
「1+1=2という計算」や「魚屋とは魚を売る店のことだということ」等々は、端的に、私たちのこの世界を成立させている前提なわけで、
この世界「の中で」発話する限り、あらためて信じるとか信じないとかいう次元ではない。
で、
「宗教」というのも、それが十全に機能しているときには、それじたいが世界を成立させる基盤になっているはずで、
それをあらためて信じているとか信じていないとかいう次元の質問では捕まえられない、はず。
この記事の調査(の質問者や回答者)が「特定の宗教」という言葉で指しているものと、本質的に宗教的なるものというものが、たぶん、ずれているような気がする。
むしろ、「特定の宗教を信じていない」と回答しているマジョリティがその世界観の基盤にしているものこそが、名づけられていない宗教で、
たとえば
現在の人類学的・社会学的視点が、トーテミズムやらアニミズムやらに宗教生活の原初形態を見るように、
1000年後ぐらいの歴史的視点でみてみれば、21世紀初頭の日本という社会の人々がどのような宗教の内に生を営んでいるかが見えてくるのだと思う。