- 作者: 斎藤環
- 出版社/メーカー: バジリコ
- 発売日: 2006/11
- メディア: 単行本
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ま、そういう先入観があったので、斎藤という人の本はほとんどスルーしていて、この本も、店頭で見かけてはいながら、スルーしていたのだけれど、なんだか褒めている人があったようなので、ちょっと見てみるかな、と、学校帰りに、大学の近所の商店街の本屋で購入したというわけである。
ところでしかし、生き延びるとかいきなりいうのだけれど、誰がよ?というのでこれまたいい印象がないではないですか。
この本を手に取るということは、生き延びるためにラカンが役に立つぞという斎藤さんの文章を読もうとする、ってことであって、しかし、生き延びるためも何も、そもそも死に瀕してるわけではないし!というふうに、まずはとうぜん、思うし、それでもこの本を買って読むってことは、つまるところ
私たち?は死に瀕しているのだ、ということ
私たち?のうちのある人たちは生き延び、ほかの人たちは死んでしまう、ということ
ラカンを用いる人たちは生き延びる、ということ
そのために、ラカン本人ではなくそれを述べ伝える斎藤さんのテキストを読むのだ、ということ
を受け入れる、ということなわけで、
なんだかそうなると、この本、手に取る前からぞっとしない。
でもまあ買って読みましたよ。
そうすると、
誰が死ぬとか生きるとか、生き延びるためにラカンが役に立つぞとか、そういう趣旨のことが特に書いてある本ってわけではなかった。内容としては。たぶん。
わかりやすかったかわかりにくかったかというのは、返答が難しいところだ。
わかった部分については、ごく教科書的な精神分析の通俗的(まぁ、さすがにいま現在通用するていどに洗練されてはいるにせよ)な知識だろうと思う。ラカンの名は連呼されていたし、いかにもラカン風の言い回しも連呼されていた。そういうのはそんなもんかねというかんじで、それなりにわかった。
わからなかった部分というのは、そういう普通の精神分析だとなめて読んでいるとあれ?と思うような部分で、それは、斎藤さんが難しい真理を言っているのやら、それともたんに粗雑な書き方をしているためなのやら、それとも単純に間違っているのやら、それがわからんので、わかったのかわからなかったのか、わからないならどうわからないのか、がよくわからない。
まぁしかし、
さしあたり、誰が死ぬとか生きるとかいう話が書いてあるわけではないと思うので、読む前にそのつもりで前提を丸ごと受け入れて読み始めた人がいたらどうすんだろう? ていうかいるのか?誰? とは思う。
つか、メシアニズムじゃん、と思い、
斎藤の名を使ってみずからの内なるひきこもりを切除して高みに立つことで生き延びようとする学生たちを生み出す人ならではだなァ、というのが感想で、
つまり、やっぱりこれは悪い人の悪い本だと思った次第。