音楽好きだが授業苦手?=「楽しんでいる」中高生半数以下−父母ら対象の民間調査

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音楽好きだが授業苦手?=「楽しんでいる」中高生半数以下−父母ら対象の民間調査
5月12日6時3分配信 時事通信
 音楽は好きだが、学校で音楽の授業を楽しんでいる中高生は半数以下−。神戸市の大手業務用音響・映像機器メーカー「TOA(ティーオーエー)」が12日までに実施した「音楽と教育の意識調査」で、こんな結果が浮かび上がった。
 調査はインターネットを通じたアンケート方式で、10代から70代までの636人が回答。このうち、子どもを持つ男女488人に「子どもは音楽が好きか」と質問したところ、「どちらかと」を含めると、87.9%が「好き」と答えた。
 一方、「子どもは学校の音楽教育を楽しんでいると思うか」との質問には、小学生の親の65.8%が「そう思う」「どちからといえばそう思う」と答えたが、中学生で約42.9%、高校では37.2%にとどまった。
 否定的な理由としては、「堅苦しい」「音楽記号や音楽史などの知識を覚えることに偏っている」などが上位を占めた。学校での音楽教育に期待するのは、「音楽を好きになること」などだった。 

まぁ、学校教育の内容について出てくる話題のいつものパターンかと思う。
英語なら、英語への関心は高いのに、学校英語を勉強しても英語がしゃべれない、みたいなオチになる。
音楽だとそれが、楽しい楽しくない・好き嫌いという次元の話になる。
でもまぁ、ほんとにそうですか、ということになるわけで、たとえば、中高生が好きな音楽が「倖田來未をカラオケでエロかっこよく歌い踊ること」だとして、じゃあそれを学校でやるかというと、たぶんやらないし、音楽教育についてはそれ以外にやるべきことというのはたぶんあるわけだし、それを学校がやるのだとすれば、学校の音楽教育の基準は当然、楽しい楽しくない・好き嫌いという次元とは別ってことになる。
音楽ってのは抽象的で広い世界であって、アカデミックな音楽は、その広い世界の可能性を踏査して拡張していくことをひとつの使命としている。音楽史だって音楽記号だって、そのためにあるんである。
学校教育の一つの大きな目的は、人間を自由にすることであって、それは何から自由にするのかというと、私的経験の限定された世界から自由にするんである。
昆虫でも犬猫でも人間でも、ほっとけば、本能だとか環境的条件だとかによって決定されたやりかたの内部で生きて死ぬことになる。たとえばアリやハチはそうして生きて死ぬ以外ない。犬猫ならちょっとは自由が出てくるのかな?でも、なんつっても、人間は教育を受けることによって、あるいは社会を構成することによってってことなのだけれど、そうした制限から自由になることができる。たとえば「個性」だって、そういう広い世界に生き始めることで初めて存在し始めるわけで、アリやハチにはそもそも個性の存在する余地なんてないわけである。
同じことで、中高生を放置して、多くの中高生が「倖田來未をカラオケでエロかっこよく歌い踊ること」を楽しんでいたとしても、それはそうかもしれないけれど、それは彼らの狭い環境的条件によって作り出された嗜好だと、とりあえずは言える。広い世界を知った上でなお選び取られたものではないんである。倖田の歌が音程悪いとか、その音程の悪さが無意味(西欧音楽に対してブラックミュージックが持つ特異性としての「音程の”悪”さ」=ブルース、みたいなものでもなく)であって単に下手、とか、歌詞が陳腐だとか、アレンジに創意工夫がないとか、エロかっこいいという踊りも発想が単純だとか、なんとかかんとか、そういうことが、判断できないで、ただ単に音楽業界だのメディア業界だののマーケティングの都合でもって供給されているものを消費して「楽しい」と言ってても、それは、アリやハチが本能に拘束されて生きて死ぬのと同じってことでもあるわけである。
くりかえすように、学校教育ってのは、そういう単に生きて死ぬみたいな閉じたサイクルから人間を自由にする、世界を拡張する、という使命を持っているんである。
えーと、すくなくとも学校教育のタテマエはそういう理屈からなりたっているわけなので、そういう理屈をすっ飛ばして、学校で音楽史をやってもつまんなーい、などとたんに言っていても、いみないのです。
ま、それはそれとして、また別の次元で、たとえば文化資本とかハビトゥスとか、いうことを言い始めるとまた話が微妙になってくるし、学校教育によって音楽的教養を身につけた学歴エリートが、音楽的教養の質においてとても微妙な立場に置かれてしまうとか、そういうことを階層論でやってくとブルデューみたくなってくるってのもある。まぁそれはまた別のお話。