きのうのつづき。居場所としての学校/サイトとしての学校。

一昨日、卒業生が研究室に顔を出してくれたときに、あれこれ喋っていて、そのときまたちょうど本屋さんが来て注文していた本がどばどばと届いたりして、またその話になったりしていたのだけれど、
例えばわたくしは、なんだかんだで年間100万円ちかくの本を学校のお金で買っている。その多くは専攻の共同研究室の書庫に入るわけだけれど、学生さんたちは「へえーこれ全部読んでるんですかあ?」というけれど、んなわけないわけである。ほとんど読んでない。で、そういう会話になって卒業生が、「じゃ、なんで買うのよ」と言うのでそれに答えていたのだけれど、
つまり、大学というところは、そういうところなんである。たとえばうちでいえば生涯教育についての(あるいは生涯教育について考える際にヒントになるような)本が蒐集されていて、ここにくれば欲しかった本があるし、ここに並んでいる本を読めばヒントになる、本棚のラインナップを見ているだけで刺激になる、さまざまなメッセージが可能的に含まれている、そういう場なんであって、だから、生涯教育というものについて関心を持ったり、きちんと考えてみたいとか、そういう人は、ここにやってくればいいということなんであるし、また、生涯教育に直接かんけいない臨床心理や哲学や社会学歴史学や・・・と横断的に思考する地平に書庫じたいがなっているわけだし、ぎゃくに、臨床心理や哲学やらに関心を持っていたひとたちがうちの書庫に引き寄せられて来ることにもなる。ようするに大学というのは、そういうところである。
きのうふなふなと書いた、時間と場所だけ決まっている授業、というコンセプトは、そういう意味合いをふくんでいる。
ところで、そういうことをいうと、「居場所としての学校」というキーワードとどう違うのか、同じなのか、というふうにも考えていけるかもしれない。
「居場所としての学校」みたいな言い方は、あまり魅力的でないと思っている。居場所機能しかないなら、それが学校である必然性はないし、むしろサイアクだと思う。居場所としての学校、というのは、いじめという現象と表裏一体だ、みたいなことを、近刊の論文でも書きました。
で、きのうとかさっき書いたような大学のありかた、というのは、「居場所」っていうより、「サイト」としての大学、なんである。
website」という言葉がポピュラーになったので、「サイト」としての大学、という言い方ができるようになってべんりである。
知的関心を持っている人があつまってくるサイト、そこには利用可能なリソースやシステムがあるようなサイト、というかんじ。
そういういいかたをして、逆に「居場所」というキーワードを見直してみると、どうも悪く心理主義的な気がする。
で、なんでそうかというと、
小中高の学校って、「サイト」として設計されたわけでもないし、「サイト」としての魅力が開発されてもいないような気がするので、だから、学校という場のポテンシャルとして、誰も「こころの居場所」ぐらいしか思いつけないんじゃないか、とか。それはいかにもつまらんことだと思う。こころの居場所そのものがつまらんというのではなくて、誰もいまだ何にも思いつけないような魅力の乏しい場について、ほかに言い方がないので「居場所」とかと称して子どもをそこに引き止める口実にしようとする、という発想がつまらんと思う。
サイトとしての学校、というコンセプト、まぁ大学については特に、珍しいものでもないだろう(大学を「居場所」にしている/したことのある人ならば誰でも感じていることだし)けれど、
なんかいまシラバスとかさ、FDとかさ、そういうのが、いかにもつまらんやりかたで広がってる気がするんで、かくにんのために書きとめておく次第。
さいきん通勤電車の中で読んだ、

ワークショップ実践研究

ワークショップ実践研究

この本に触発されて考えていること。