『文化と両義性』を参照しつつ教育を記号論的に論じる、というお題。『異文化としての子ども』あたりはどうか。

うちの学生が、さる演習授業で、鍛えていただいている。それで、その演習でうちの学生たちがいただいたお題というのが、「自分の専門の領域で、記号論的に問いを立てて論じよ」というものであるので、相談に乗ってあげてね、はいわかりました、ということになった。休み時間の移動中に、ご担当の先生と立ち(歩き)話してて、そういうことになったんである。春学期は『文化と両義性』を参照していたということなので、たぶんそのへんを参照しつつ記号論、というふうにするという方針がたつのか。
『文化と両義性』、昔読んだかなあ、読まなかったかなあ、というぐらいの記憶。
岩波現代文庫ででている。

文化と両義性 (岩波現代文庫)

文化と両義性 (岩波現代文庫)

それで、
福祉の学生たちもその演習にいるのだそうで、おなじ課題をやっているということである。
福祉、だと、スティグマの両義性みたいなはなしで、中心と周縁、といった構図で「「障害」とは何か」といった問いを立てる、というふうに進むのかしら、と連想した。
そうすると、教育だとどうなるのか。
で、タイトルで思い出したのが、これはじつは読んでないのだけれどタイトルだけいうと
異文化としての子ども (ちくま学芸文庫)

異文化としての子ども (ちくま学芸文庫)

このへんかな、と、あたりをつけてみる。ちくま学芸文庫ででてたんやね。
このへんは、なんかたぶん文庫化されてるはずだな、ということは頭の片隅にありつつ、なんとなく読んでないままなのだ。

インタビューで、こんなのがでてきた。
http://www.shiojigyo.com/en/backnumber/0501/main3.cfm
なんだ、

―― じつは、僕も今回改めてちくま学芸文庫版を買って読み返しましたが、新しい発見がずいぶんありました。今でも十分に刺激的な本だと思います。
まあ、普通の子ども論とはまったく異なるものでしたからね。しかしそれにしても、この本はある意味でとても分かりやすい。一言で言えば、山口昌男理論の子ども版。いい加減そろそろ葬ってもいいんじゃないかと思ってはいるんですが……。

なんて書いてあるじゃん。読んでなかった割にはビンゴだなあ。
研究室においてあるのをぱらぱらと見ていると、小浜逸郎が批判しているんだそうで、

方法としての子ども

方法としての子ども

がそれだと。
あと、「いい加減そろそろ葬ってもいいんじゃないか」というご本人のその後についてフォローをしておけば、学生さん的にはなんとかゼミ発表ができそうかしら。