通勤電車で読んだ『家族内殺人』はもひとつ。風呂とか電車とかで読んだ『“声”の国民国家・日本』はすごくよかった。

通勤電車の行き帰りでさくっと読んだ

家族内殺人 (新書y)

家族内殺人 (新書y)

これ、『犯罪不安社会』の人が編者で、基本線は「児童虐待や家族内殺人は増えてない」という線なのだけれど、たくさんの著者が書いていて、実際のケースの話などでてくると、ちょっと切れ味的には弱くなる。
無責任にスカッと「犯罪不安社会やーねー!」と言えればいいのだけれど、やはり一人一人のケースが見えると、無責任な口がききにくくなるっていうところもある。
あと、
何日か前から読んでたのを読了。
“声”の国民国家・日本 (NHKブックス)

“声”の国民国家・日本 (NHKブックス)

もともと、学校帰りに商店街の古本屋さんでなんとなく購入、そのごながいことほっといてて、先日、風呂で読みはじめ、意外と面白くて通勤電車でも読み、それ以外でも読んで読了したというしだい。
えー、タイトルだけからなんとなく、ラジオとかメディア論みたいなことかな、と予想して買ったんだけれど、そういうことではなくて、浪曲とかのはなし。
身分国家から国民国家に社会が編成替えをするのに、天皇を頂点とする家族国家観、家父長制が役割を果たしたというのだけれどそれだけではないぞ、むしろ重要なのは、いわゆるふつうのイエ的なつながりから放逐されたアウトロー的な「ファミリー」の感覚であって、アウトローだからこそ通常のしがらみをすっとばして天皇に直結する共同体の感覚を醸成したのだ、という。たとえば仇討物なんて、親の仇を追うために放浪をして、最底辺まで身を落としてアウトローとなり、そしてさいごに仇討を果たすという究極の忠孝の物語なわけで、たとえば大人気の定番の演目である忠臣蔵なんて、法を破ってまで主君の仇討をする究極の忠孝の物語なわけで、そういう感覚というのが、浪曲の唄に乗せて明治の大衆の心情を一挙に天皇にまで直結させた、というのは、なるほどというかんじ。そういう心情は、そのまま、当時の右翼テロリストの心情にもつながっていき、大衆的な共感を醸成することになった、と。
明治政府なり、あるいは社会主義者たちなりがそれぞれのやりかたで「大衆」を動員しようとしてはいたのだけれど、じっさいの「大衆」たちは、浪曲的な物語によって心情的に共同体にとりこまれていったのだ、と。
浪曲のルーツというかんじで「デロレン祭文」とか出てきて、むむ、三波春夫か?「デンデーンデロレーン」とかいう歌があったなあ、たしか三波春夫浪曲出身だったし、などと思っていたのだけれど、最後の数ページでようやく戦後の話になり三波春夫の名前もちらっと出てくる。
あと、祭文といえば、夢野久作ドグラ・マグラ』に祭文語りってのがでてきたなあという覚えがあって、ところが、夢野というのは九州の右翼結社につながりのある人で、玄洋社というのが桃中軒雲右衛門を後援したというあたりのはなしでつながってくる。ちょっとおもろい。
小沢昭一とかが、口承芸能なんかを採集していて、しかし、それにたいしてもちらっと批判っぽい言及もしている。