誇り与える それが教育 「エリート教育が見直されている」と、教育社会学者の竹内洋さんは・・・

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教育ルネサンスエリート養成(19)誇り与える それが教育
 
「エリート教育が見直されている」と、教育社会学者の竹内洋さんは見る。

 栄華の巷(ちまた)低く見て――と、そのエリート意識が寮歌にも歌われた戦前の旧制高校文化。難解な哲学書を読み、人格を高める「教養主義」は、社会的ステータスを得るための切符だった。大正期に生まれ、旧制高校がなくなった後も受け継がれるが、団塊の世代が大学生活を送った1970年代に幕を閉じる。

 「私が京大に入学した60年代、大学にはまだ、旧制高校的な教養主義の雰囲気が残っていました」。その洗礼を受けた最後の世代として、教養主義とエリート教育の変遷を丹念に読み解いた著書「学歴貴族の栄光と挫折」「教養主義の没落」などで知られる。

 「教養主義の根底には、よりよい社会を作りたいという、エリートとしての責任感がありました。旧制高校生は、選ばれた者としての役目を自任し、階級特有の文化や品格を習得することを使命とした。圧倒的多数の大衆も、自分たちの代表であることを期待していたんです」

 だが、旧制高校のエリート意識は、敗戦によって否定される。47年に教育基本法が施行され、教育の機会均等がうたわれる。学校制度はエリートと非エリートを分けた「複線型」から、現行の六三三四制を基本とする「単線型」に改革された。大学進学率も70年代に30%を超え、大学生は数字の上でもエリートではなくなった。

 一方、平等主義に彩られた戦後教育は、日本人の平均学力を押し上げ、急速な経済成長の原動力になった。だが同時に、難関校合格こそが人生における成功とみる受験エリートが現れ、受験戦争は過熱する。

 「公人を目指す全人格的教育ははやらなくなり、将来いい仕事に就けるからと、私的な利益のためだけに高学歴を求めるようになったのです」

 その結果、公共心のあるリーダーは育たずに、個人主義が横行するようになった。国家戦略が問われる「知の大競争時代」を迎え、画一的な詰め込み型の教育にも、限界が見えてきた。

 自ら考え、問題解決できる人間が今、求められる理由だ。大学受験も、ペーパー試験だけでなく特技やリーダーシップなどを問うAO入試が盛んになり、「再びエリート教育が現実味を帯びてきたと感じます」。

 子供たちに学ぶ意味を説明しきれない現状も、エリート教育が見直されている理由だという。

 「本来、教育にはミッション(使命)が必要。単に勉強しなさい、では子供は頑張れないわけです。ところが現在の教育は、それが見えなくなっている」。その点、エリート教育は目標が明確だ。一方で、社会の側にエリートへの嫉妬(しっと)心がなくなってきていることにも着目する。

 「高度経済成長期のように、みんなが上へ行ける時代ではない。だが、ホリエモンに象徴されるように、エリートはリスクが大きく浮沈が激しい。しんどいエリートよりも、普通でいい、私は私、という感覚が急速に芽生えつつある。ある意味で成熟社会を迎えたのだと思います」

 日本を支えてきたのは、一握りのエリートだけではもちろんない。職場の生き字引や万年係長がいてこそで、彼らが誇りをもって生きられる社会が大事だと考える。「エリートであろうとなかろうと、人々にプライドを与える。それが教育の仕事だと思います」(聞き手・松本由佳)

 新潟県生まれ。京都大学大学院博士課程修了。同大教授、同大教育学部長を経て、現在、関西大学教授。専攻は教育社会学、歴史社会学。近著に「丸山眞男の時代」。64歳。

(2006年4月27日 読売新聞)