『海辺のカフカ』読んだ。ホシノ青年のくだりだけで80pぐらいならいい。

このまえとうとう『ねじまき鳥』を読んだので、そこからあと現在にまで追いついておこうということで。

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

長いよ。途中でシューベルトだったかについてぐじゃぐじゃ言っていたけれど、あれは本作へのいいわけに違いなくて、冗長で不完全ということだろう。それでもいいのだ、失敗作でも魅力はあるのだ、と、漱石までひきあいにだして強弁するのだけれど、たんに冗長でたんに失敗っていうことだってありそうなものだ。
いつもながら、老若男女(そして古今東西、すなわち終戦後間もない時期の田舎の人やアメリカ人も)あらゆる人間(だとか猫だとか)がほぼすべて村上文体で喋ったり考えたり感じたりする。夢と戦争でアヤをつける。暴力と性交の描写をてきとうに織り交ぜる。てきとうなご都合主義で話が進む。都合が悪くなると(あるいは使い道がなくなると)殺す。等々。まぁいつもながらの調子である。主人公が15才の少年ということになっているのだけれど、村上文体で喋ったり考えたりするので、とてもじゃないけど15才に見えない。そこで、学校友達もいなくて本をよく読んであとはストイックに身体を鍛えている内省的な少年、というような設定になっていて、つまり、15才に見えなかろうが何だろうが村上文体に凝り固まるぐらい本ばかり読んで内省ばかりしていたんだからしょうがないだろう、ということで、そんな不自然な人造人間みたいな登場人物をわざわざ設定するというあたりで、ちょっとねえ、というかんじ。いやじっさい、早起きしてジムでワークアウトしてから図書館に行って閉館までじっくり漱石全集をはじから順に読んで帰るみたいなルーティンが出来上がってしまうような登場人物って、要するに村上本人ではないですか。
いや、何が気に入らんといって、私の好きなプリンスの曲を、タイトルだけそれっぽいという理由で、それは違うだろうというような場面でBGMにしてるのには、頭にきた。ついでにいうと、トリュフォーの映画って、あんまし女顔のすらりとした美青年って出てこない気がするのに平気で「トリュフォーの白黒映画に出てくるような」みたいな書き方をしたりするし。なんか、この作品をありがたがるためには、プリンスとトリュフォーのことなんかどうでもかまわないし聴いたことも観たこともない、というのが好都合なのだと思う。それってねえ。
なので、ホシノ青年のくだり、カーネル・サンダースとか女子大生デリヘル嬢とかごちゃごちゃ出てくるところだけピックアップして(知的障害ということを作品に利用するやり方の政治的正しくなさは不愉快なのでナカタさんについてのごちゃごちゃしたエピソードは大幅に刈り込むとして)、80pぐらいのB級ロードムービーふう中篇になったらちょっといいかも。