- 作者: 奥泉光
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2018/05/08
- メディア: 文庫
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奥泉光といえば『『吾輩は猫である』殺人事件』の人で、そのへんで期待したのだけれど、まぁこの文庫本のもとが中学生向けのシリーズ「14歳の世渡り術」の一冊だったということのようで、まぁあまり立ち入ったことは書いてなくて、漱石の10作品をとりあげながら、本とか読んだことのない中学生向けに、小説を読もう、小説は物語だけではない(テクストである)、ということを示すガイドブック。最初の章が『吾輩は猫である』で、いきなり期待したらいきなり導入的なはなしで、「小説は全部読まなくていい」ということだけを言っていて(まぁたしかにそういうことを示すには『吾輩は猫である』はちょうどいいかもだけど)、まぁそういう湯加減の本なのかなと早々に察する。ちょっとよかったのは『坊っちゃん』の章で、なんとなくの先入観で『坊っちゃん』を威勢のいい江戸っ子おおあばれみたいな痛快なおはなしと思っていたら大間違いで、冷静に見たら坊っちゃんは他人とコミュニケーションができない暗くて孤独でヤバい奴であると。じつは漱石の登場人物に通底する孤独とかの主題が出ているんで、それを文体で威勢よくポンポンと語っていくのでそんな話だと錯覚してしまうんだけれど、そこが面白のだと。まぁあとは、『明暗』にかこつけて、小説は完結する必要はない、ていうか「終わること」は小説には必要ではなくて「物語」に必要とされていることだ、ということを言っていて、そのたとえとして音楽をあげている。クラシック音楽は「起承転結」を意識して「終わること」をめざして構成されているけれど、音楽はそういうのばっかりではなくて、たとえばレゲエなんかはいつ終わってもいい、てきとうに延々やって、疲れたらてきとうにみんなで「ジャン!」つって終わりにしちゃう。でまぁ小説もそういうので、まぁたしかにプロの小説家はもちろん商売柄「物語」も意識するし起承転結もつけようとするけれど、しかしたとえば『吾輩は猫である』なんていうのはいつまでもだらだら続けられるものだったはずだし、あの最後の猫が酔っ払って死ぬところなんかはいかにもとってつけたみたいでレゲエの「ジャン!」みたいなかんじだし、また、たとえばそこからやおら「吾輩は九死に一生を得た」とかいって再開してもなんの違和感もないだろう、と。そういうたとえ方は、ぱっとわかりやすいかんじはある(クラシック音楽と小説の関係、民族音楽と物語の関係、とか考えはじめるとややこしくなるかもだけど)。また、『「吾輩は猫である」殺人事件』はまさにそういうふうにして『吾輩は猫である』の再開のように書き始められながら、同時に、探偵小説のような「起承転結」の枠組みによって解決に向けて強力にドライブするものでもあったし、その解決がまたメタフィクション的な批評性を抱え込むものになっていたりして、この本はそのあたりの自作の読み解きということにもなっているかもしれない。