本日のweblog記事。「亀山郁夫問題」というのを知る。新訳『カラマーゾフ』は誤訳だらけで、というはなし。

ひょんなことから、こちらのweblogに到達、あれこれ面白く読む。
亀山郁夫の狂気 - こころなきみにも
カラマーゾフ』の新訳が出てびっくりするぐらい売れた、というのは数年前の話だったか、それはひょっとしたら村上春樹あたりが『カラマーゾフ』に言及してあれこれ言ってたとかいうのと連動していたのかもしれないし、新訳を村上が誉めたとかいうこともあったとかそういうことなんだろうね、と、想像で補いつつ雰囲気読みでこのへんの批判を読み進めるわけだけれど、まぁおもしろい。
最近の翻訳全般についてということにも広がるようでもあるのだけれど、「古くさい」「堅苦しい」旧訳でイメージが出来上がっていた古典文学を新しく訳してみたら、読みやすくてドストエフスキーもすいすい面白く読めるし、それによって新解釈も出てきて学術的にも意義があって、しかも春樹さんも誉めているし、評判になって飛ぶように売れて出版業界もホクホク、ということがあるらしく・・・ところがロシア文学業界でドストエフスキーを長年読んできた人たちとか研究者とかから見ると、新訳は誤訳だらけだし、新解釈なるものも失笑ものだし、こんなものが旧訳を駆逐してこれからの翻訳書のスタンダードになってしまうということには危機感を感じる、・・・みたいなすじがき。
で、そうなると、自分的には、まぁどうせ文学なんてわかんないし『カラマーゾフ』なんて読まないしどっちでもいいんだけれど、より学術的なほうに乗りたいという気分はあるわけである。
上記weblogからリンクされている別の人の文章。
PDFファイル - 連絡船
もとのweblogのかたの紹介に、

長文だけれど次に掲載されているPDFファイルも参照。144頁目から亀山が文科省の役人の前で自分のドストエフスキー研究を自画自賛している文章が読める。正気ではない

と書いてあり、読んでみると、ははぁ、という感じなのだけれど、まぁ、亀山という人も、「文部科学省の学術研究推進部会での「人文学及び社会科学の振興に関する委員会」」とかいうところでしかるべき立場で発言することになれば、心にもない事を立場上言わなければならないってこともあるだろなあ、とも思う。それは、亀山という人の自己弁護のためというのもあるかもしれないけれども、文部科学省に対して「業界」を代表して「業界」を売り込むとか守るみたいな役目をかぶってはるところもあるんだろうな、とも思うので、それをもって「正気ではない」と糾弾する、という気には、あんまし、なれないかもしれない(いまのシーズン、多くの研究者が研究資金獲得のための書類に正気とも思えない自画自賛の文章をまとめているんだと思う。たぶん書きたくもないことを我慢して書くわけで、まぁそんなこんなしつつその中から良い研究がうまれるということだってあるわけだし、それは学問領域全体にとっても必要なことなわけで、それと同じ事だとおもう)。
あと、
どうでもいいこととしてですが、上記weblogの最近の記事で自分も見たことのある映画について書いてあったので見てみたのだけれど、
二代目はクリスチャン - こころなきみにも

また、今は亡き島田竜介扮するチンピラヤクザが殺される場面も心に残る。キリストに導かれた人間の崇高さが明確に出ている場面だ。島田竜介はこの映画によっていつまでも私たちの中に生き続けるだろう。

そうそう、チンピラヤクザが殺されるシーンはぐっと来たなあ、と共感しつつ、
ちょっと気になったのは、この映画によっていつまでも私たちの中に生き続けるであろう男は「松本竜介」なんじゃないかということだ。この点については、松本竜介がリアルに早世してしまっているので、ちょっと心が痛む。「B級映画だという人もいるが、B級映画という言葉の意味が分からない。良い映画と下らない映画があるだけだ」という厳しい言葉が書き付けられた文章の中でのことだけになおさら。たぶんこのweblogの方にとっては松本竜介なんてくだらない芸人のひとりでしかない、というより端的にほとんど知らないしどうでもいい、泡沫として消えてしまってかまわない存在だったのだろう。まぁわからなくはない。ただ、映画のクレジットにだって松本竜介と書いてあったはずのこの男をわざわざ島田竜介と念入りに二度も繰り返してしまったこのweblogの人は、竜介のことをまったく知らなかったというわけでもなかったわけで、つまり、島田紳助の相方として記憶していたわけで、まぁ少なくとも存在はしていたというふうにいえなくもないわけなので、まぁそのことを松本竜介は、草葉の陰かなんかで意外とすなおに喜んでいるかもしれない。