『坊っちゃん忍者幕末見聞録』。

某日、散歩に出かけてみたもののけっきょく近所をぐるぐると巡回するかんじになって、それでも書店に立ち寄って何かないかと見ていたら文庫新刊で奥泉光がでていて、これは、ということで奥泉奥泉、と探してみたらもう一冊あったりしてそれと一緒に購入。とにかく『「吾輩は猫である」殺人事件』の人、ということで、こんどは「坊っちゃん」なのか、と楽しみに読んでみた。で、あとがきによればこれは新聞小説だったそうで(「2000年9月から2001年5月まで」の連載だったというので、9.11テロの直前でもあったということなのだろうけれどそれはともかく)、まず本の厚さが厚い。それだけの長さを持続させるわけで、たしかに楽しくお話は進むのだけれど、他方で、「坊っちゃん」的なさっぱりした展開にはならないことになる。
例によって惹句に曰く:

坊っちゃん」、幕末に現る!庄内藩で霞流忍術を修行中の松吉は、尊王攘夷思想にかぶれたお調子者の悪友・寅太郎に巻き込まれ、風雲急を告げる幕末の京への旅に。坂本龍馬新撰組ら志士たちと出会い、いつのまにか倒幕の争いに巻き込まれ…!?奥泉流夏目漱石坊っちゃん』トリビュート小説にして、歴史ファンタジーの傑作。

ということなのだけれど、まず、「坊っちゃん」の役回りの主人公とまわりの人たちは、庄内藩の出身ということで東北弁で喋る、というのがある。ところで「坊っちゃん」なのだからこれは主人公が語り手になる一人称小説である。ふつうに一人称小説として漱石の「坊っちゃん」の文体ではじまり、およそ文庫で15ページぶんぐらいその調子で進行したところでふいに直接話法の会話文が出てくる。こんな調子:

おれはべつに何になるつもりもなかったので、何にもならないと答えた。すると、お糸が妙に大人びた顔になって、忍術遣いになるのじゃないかといったので、忍術じゃ飯は喰えないと答えた。
「んだば、どしてまま喰っていぐ気だ?」
何をして飯を喰うのかとあらためていわれて、おれは少し困った。甚右衛門の跡を継ぐのは間違いないが、その甚右衛門が何をして飯を喰っているのか少々いいにくいものがあるのだ。
馬医者になるのかと、お糸がまたきいたので、仕方なくおれが頷くと、どうせ医者になるなら人を診る医者になったほうがいいとお糸がいった。
「それも悪くねえの」とおれが深い考えもなくいうと、
「松吉が医者になったら、おらを家さ置いてくいっが?」
お糸が頼んだので、置いてやるとおれは請け合った。
「ほんとに置いてくれっが?」
「ほんとに置いてやる」
「ほんとか?」
「ああ、ほんとだ」
お糸は嬉しそうに笑って、脱いだ藁草履を手に持って、畦を駆け出した。

というわけで、地の文とか心内語とかは漱石の「坊っちゃん」で、直接話法の会話が方言、ということになる。というのがまぁ、文体上の仕掛け。一人称の語り手とは何者か、みたいなことは、『「吾輩は猫である」殺人事件』でもカギになっていたところでもある。
でまぁ、そっちの仕掛けはわかるのだけれど、この『坊っちゃん忍者幕末見聞録』のほうでは、それどころではない大仕掛けを、後半になっていきなり導入する。で、なんでそんなことをするのか、自分的には意図がわからなかった、というところはあって、それをやってしまうと「坊っちゃん」の世界ばかりか、この小説の空間じたいがあやしくなってしまうじゃないか、と思いつつ読んでいたのだけれど、そのへんはどうなのか。まぁ、意外と、もういちど漱石の『坊っちゃん』を読み返してみたらこんな感じだったのかもしれない、というオチかもしれないけれど。
まぁあと、解説の人が書いていてなるほどと思ったのが、「坊っちゃん性」というもので、それは「新たな土地にやってきた主人公が、正直を貫いた結果、敗れ、元の土地へ去ること」だと。なるほどそれはそういうものかもしれず、また、本作もそういうところは「坊っちゃん性」を再現している。
でまぁもう一つは、あとがきで著者の人が言っていたことで、

漱石のテクストに通底して響くものは孤独である。共同体から遊離する孤独ではなく、他人との交わりを求めながら失敗するものの孤独。・・・とりわけ坊っちゃん先生の孤独ぶりは、清が死んだあとこの人はいったいどうやって生きていくんだろうと、心配されるほどに底深い。/一方、読んでいただければ直ちに分かるとおり、本書の坊っちゃん忍者・松吉は、無口で口下手な男ではあるけれど、坊っちゃん先生とは違い、寅太郎や平六と云う友達がいる。・・・早い話が、主人公を孤独地獄から救い出したいと云うのが、『坊っちゃん忍者幕末見聞録』を書いた密かな動機なのであった。仕合せな坊っちゃん。それが自分の望むものなのであった。

というのも、これまたなるほどで、

しかし、仕合せな坊っちゃんと云うのは、もはや坊っちゃんではないのではないか、

と作者じしん自問するところであるにせよ、なるほどと。