『社会学にできること』。社会学の時代が下り坂になるとこういう、哲学の人が「社会学にできること」を語りだすようになるのか。

非常勤先に行く途中の本屋で例によって購入。いま読んでる中。

社会学にできること (ちくまプリマー新書)

社会学にできること (ちくまプリマー新書)

著者は、哲学の人と、あとジンメルの人。
ジンメル、というあたりがびみょうで、この本、すくなくとも今読んでる感じでは、ジンメルからデュルケームを引き算したかんじのところを、哲学の人といっしょになって攻めてる感じ。そうすると、社会学ってよりも、生の哲学というほうに振れるんじゃないか、という印象。
自分としては、デュルケーム命で、学生の頃はジンメルがいいかとも思っていたのだけれどそれは、デュルケームと同じノリを「ミクロ社会学」でやったら「形式」ってことになるもん、という感じだった。つまり、ジンメルの中のデュルケームと重なってるところが好きだったわけで、つまり、ジンメルからデュルケームを引き算したら、自分のストライクゾーンからは外れるなあ、というかんじ。
で、このての社会学入門の本を見かけると、最初のほうのページをぱらぱらと見て、デュルケーム『自殺論』の説明を確認することにしている。この本の場合だと

彼は世間の常識においては極めて「個人的要因」によって引き起こされると考えられる「自殺」が、じつは「社会的なもの」に起因することを主張します。そして「社会的事実」としての自殺を次の四つの類型に分類しています。
 一つは集団本位的自殺。これは集団の価値体系への絶対的服従を要求する社会に見られます。殉教や殉死などがこれにあたります。二つ目は、自己本位的自殺。個人主義的価値観が浸透した社会において増大すると考えられています。孤独感や焦燥感から来る自殺です。三つ目はアノミー的自殺。これが後年最も注目された重要な類型ですが、社会的規則や規範が緩くなって起こる自殺の形態です。アノミーとは、中心的価値観や強制力のある規範を喪失した社会的状況のことを意味します。ですから、アノミー的自殺とは、現代社会において社会的規則や規範が緩くなり、自己の欲望が際限なく膨らんでいくことをコントロールできなくなった人々が、「自由」を獲得した代償としての不安感から自殺に走ってしまうような事態を指しています。そして最後に宿命的自殺。これはアノミー的自殺と対立する類型で、過度に規制が強かったり、抑圧的な規律に起因する自殺のことです。(P.65-66)

となっていますね。
四つの類型といいながら、なんとなくふたつでいいじゃん、軸が直交して四象限になってるようには見えないよなあ、という。そういう教科書が多くて、そういうのは困るのだよ、と、自分の授業では言っている。
ちなみに「宿命的自殺」というのは誤訳だと思って、原語どおりに「宿命主義的自殺」ときっちり訳さないと意味が変わってくると思う。これも授業では言ってますが。
それはそれとして。
いま、例えば心理学者がテレビとかで社会現象を斬る、みたいなのは減ってきたような気がする。そのぶん、一時期、社会学者がポピュラリティをもってきたような印象があって、それがそろそろ流行し終わってきたのかな、という印象。そういう時期に、哲学の人なんかが「社会学にできること」をああだこうだ語り始める、ということなのか、と。