ドライヤー『吸血鬼』。まさかの小中理論か。

VHSから救出するシリーズ。『奇跡』というのを救出して、その流れで、そういえばほかにドライヤーの映画を何本か録画してたなと思い、ついでに『映画千夜一夜』なんかも読み返したりしつつ、VHSの山の中から『吸血鬼』の入ってるのを探し出して、見た。
基本的にはまぁ、芸術映画っぽいかんじで、つまり物語がグイグイ進んでいくというよりは幻想的な怖そうなイメージが重なっていくような映画。なのでさいしょはいまいちぴんとこなくて、なにしろいつまで待ってもなかなか吸血鬼が出てこないし被害者もベッドで寝てるだけで、なんていうか吸血鬼映画にこっちが期待するイメージ、若い美人の首筋にイケメンの吸血鬼が背後からカッと噛みついてる的なビジュアルは、けっきょくさいごまで出てこない。
なのだけれど、怖そうなイメージというのはなかなかよくて、黒沢清が褒めるのもわかる。たとえば最初に主人公が宿に泊まろうとして呼び鈴を鳴らしたときに、ふとカットが変わって妙なところから女が顔を出す(たぶん二階の窓からということなのだろうけれど、キャメラが急に真上を向いたような変なアングル)、のだけでなんとなく薄気味悪い。続いてその女が主人公を部屋に案内するところも、一瞬のカットでその女が妙に小さいというだけで不安な気持ちになる(まぁ主人公に比べて背が小さいということなのだろうけれど)。あるいは最後、吸血鬼が滅びたときに、屋敷の窓から巨大な顔が覗くところも気持ち悪い。で、この3つは、「ふつうじゃないところに人がいると怖い(orサイズが異様だと怖い)」という、まさかの小中理論なのである。あるいは半透明の窓とか靄とか、あるいはクライマックスの「死の機械」とか、生から死へのゆっくりとした移行とか、そのへん黒沢清してるのだ。