『ノー・シャーク』。これはサメ映画なのかというメタ・サメ映画。

年度がかわってちょっと気が楽になって、さて映画を見ようか、何を見ようか、いやいざとなったら悩む、などと思いつつ例によってTwitterのタイムラインを横切った『ノー・シャーク』という映画についつい釣られてしまう。Amazonのストリーミングで見れてしまうわけである。これはどういう映画なのか。というかこれはサメ映画なのか。さしあたりはメタ・サメ映画だということになる。若い美人がサメ映画のようにサメに食われることを夢見る。それで近所のビーチに行って砂浜からサメの姿を探してみたり、少し水に入ってみたりする。ビーチには他の女子たちや男たちがいる。かれらと絡んだり絡まなかったりしながら、一日がおわり、また別のビーチへ。といったことを、女子のモノローグで綴っていく。さしあたり2時間弱のあいだずっと女子のモノローグで綴る十二章。ゴダールの『探偵』が探偵映画であるならこれだってサメ映画なのではないか。ぐらいの距離間のサメ映画。えーともちろんゴダールの『探偵』は探偵映画ではないしこれはサメ映画ではない。というのでもいっこうにかまわない。

いや、まぁだからこういうことを言うのは野暮なんだけれども、要するにメタ・サメ映画というのはつまり、サメに食われる女子とは何者なのか、その条件を問う映画であると。