『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』。

新書に「なぜ○○なのか?」というタイトルがついていて、○○のところが共感を呼ぶキャッチーなあるあるだったら、それでもう買いたくなるのだけれど、冷静な人であればそもそも本当に○○なのか?みたいにタイトルの命題を疑うべしというライフハックもすでに広まっているのだけれど、まぁ本書の場合、たしかに働いていて本が読めなくなったなあという感慨はあるのだからそこを疑う気にはならない。ただし、それはなぜなのか?という問いのほうにはやや変奏が必要かもしれない。
なぜ働いていると本が読めなくなるのか、というと、そりゃまぁ働いているからでしょう、会議をしながら本を読むこともできないしトラックを運転しながら本を読むのもできない。まぁしかしそれをいうなら水泳をしながら本を読むこともトランペットを吹きながら本を読むこともできないわけだから、まぁ読書というのは「ながら」に向かないし、まぁ働いていない時にくらべれば働いているとそりゃ本は読めなくなるでしょうね、でお話は終わってしまう。なので、そういうわけでタイトルの問いをちょっと変形しないといけないということになる。
たとえば、「いやいや、働いていても本を読めることはあるよね?」ということになると、それはいつどのようになのか、みたいなことになる。で、本書は明治以降の日本の労働と読書の歴史をたどりはじめる。しかしまぁ、みんなが働きながら楽しく本を読んでいた時代などあったのかしらというのもある。
そこで、「いやいやそもそも、本を読むにも種類というものがあるよね?」ということにもなって、つまり、大ヒット映画?の『花束みたいな恋をした』にでてくる(らしい)ように、文科系っぽかった青年が働き始めたら本が読めなくなってパズドラしかできなくなった、しかしじつは自己啓発書は読んでるみたいな描写があるらしく、つまり、問いは、「なぜ働いていると本と呼ぶに値する本が読めなくなって、およそ本と呼べないような自己啓発書しか読めなくなるのか?」ということになり、そのうえで「本と呼ぶに値する本を読む人たちと、本と呼ぶに値しない自己啓発書を読む人たちのちがい、すなわち階級、とはどんなものだったか?」というふうにも変形されて、「教養」のための読書と、「修養」のための読書、といった区別がでてくる。しかしそういうはなしになるとむしろ、「教養」がわが「修養」がわをバカにするみたいな関係が出てきて、まぁようするにそれこそが階級、ということなんだけれど、そうするとまた工場なんかで働いている人たちが「教養」にあこがれて本を読む、ということも起こるし、そのすべてがナチュラルに楽しい読書ということではないかもしれないしほんとうに読まれたのかもよくわからないにせよ、とにかく文学全集のようなものが大衆的な売れ行きを示したりしていたと。また逆に階級ということであれば多少なりとも上のほうなのかもしれない新中間層だって、まぁサラリーマンになったのであれば「教養」とばかりもいってられないし通勤電車で文庫の大衆小説を読んだりするようになる。さてそうするとそれを「働いていても本を読んでいる」よね、と言えるかどうかというのはよくわからんことになる。あるいは、えんりょなく「働いていて本を読んでるんだからいいよね」とか「それを認めないのは階級的な差別意識だよね」とかいう言い方もあるだろうし、「いやーやっぱりそんなぬるい本とか、つまるところは自己啓発書みたいなのばかり読んでるのは本を読んでるうちに入れたくない、それはただ情報を摂取しているだけだ」という言い方もあるだろう。このあたりはだから、おはなしがぐるぐるまわる。
で、この本全体のオチは、だからよくわからないところはあるし、だいたい著者の人がすでに勤め人をやめて本を読むのを本業にしている以上、著者の人のアドバイスがこっちには響きにくいってのもある。でもまあそれはそれ。