『ショットとは何か』読んだ。

ショットを撮ることが今どこまで幸福なのか不幸なのか、というので悩んでいる、と黒沢清が言っていたのが『映画長話』で、と過去のログを検索するとすでにそれが10年前の本だったということに驚くわけだけれど、
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ともあれ、ショットが撮れるとか撮れないとか、あるとかないとか、ショットを殺す撮りかたをしているとか、なんだかかんだかと言い合っていて、いやそもそもショットとは何なのかと、まぁ思うわけで、そこからだから10年、おどろくまいか『ショットとは何か』という本が出てきたので読んでみたわけだが、もちろん、ショットとはこれこれであるという言葉で定義が示されるということのあるはずもなく、なにしろ映画についての理論的語彙などあてにならないもので、なにしろ映画理論家だろうが誰だろうが、すべての映画を見たという人はいないわけで、誰だろうが圧倒的に「見ていない映画」のほうがおおいわけで、しかもたとえ見たところで画面のすべてを見て記憶できる人なんかいないわけなので、つまり理論は映画に絶対に追いつけないわけである。いやまぁそれはそうとして、だから、ショットとはこれこれのことですよと言葉で言うんじゃなくて、いろいろな映画のいろいろなショットについてああだこうだ言っている。なので、それではこの本は、それらの作品をDVDで取り寄せてそれらの場面を見ながら読んで、それらの決定的な場面こそがショットなのだ、と言っているかというと、たぶんそうでもなくて、たぶん、ショットの撮れる人が撮ったなんてことのないふつうの場面も充実したショットだし、なんてことのないふつうの、あるいは失敗作とか愚作のなかにもいいショットが含まれていたりするということで、まぁけっきょくショットというのがこれ一冊でぱっとわかりましたとはならないような気がするけれど、まぁ、それは文章読解力と映画的教養のもんだいかもしれない。もうすぐ出るかもしれない『ジョン・フォード論』と同じような密度の「映画史/映画理論編」が著者によって書かれることがこの先あるのだろうか、しかし、そんな本は出さないよというのでこの本なのか、そして、この本に書かれていることを正確に読めば著者の映画史/映画理論(の不可能性、ということにせよ)の要諦は全部書かれてるってことなのか。