『清須会議』みた。
そうそう、いつもなら(あるいは昔の)三谷映画っぽいなと思うポイント、日の当たらないところでささやかにまじめにやってる職人みたいな人に一瞬だけ見せ場が訪れる、とか、ツキがなかったうまくいかない人生を送ってた人がちょっと報われるとか、いろいろ伏線をはっては手品のように回収しながらそういう人たちそれぞれに思いがけず光が当たるシーンがある、みたいな作劇が、希薄だなあと。また、おなじことだけれど、「敗けている人たち」へのスポットライトというか、大河ドラマの『真田丸』なんかも、真田なんて敗けることがきまってる側なわけで、それがあらゆる才覚を発揮して善戦するもツキにめぐまれずに最後には敗けていく、みたいなおはなし。そういうのが、『清須会議』にはちょっと希薄で、まぁ敗ける人というのはここではまずは役所広司だろうけれどこれはいかにも間抜けで実力不足。時代からずれてしまった人の好さみたいなのが強調されてそれはそれで魅力的ではあるにせよ、お人好しが敗けてもいまいちもりあがらないかんじはする。鈴木京香も、謀略をめぐらすには力不足。このあたりは敗けてとうぜんにしか見えない。なので、小日向文世、ということになるけれど、これとて職人的に才覚のきらめきを見せるというには手数がたらないし、裏方の参謀が奮闘むなしく敗北、というふうにはなってない。まぁけっきょく勝者の大泉洋がぜんぶもってくはなしで(まぁさいごにちょっと、日の当たらない場所にいる者 ー 女 ー が才覚の光を一瞬みせるけど)、まぁ、才覚ある者が勝ちますよ、太閤記ですよ、ということなら三谷映画のペーソスの側面はちょっとひかえめになるかなあと。
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ぼんやりと考えていて、三谷ドラマで「お人好し」というと『王様のレストラン』の筒井道隆かぁ、という気がしてきた。そうすると、役所広司が筒井道隆、小日向文世が伝説のギャルソン松本幸四郎という役回りとして、鈴木京香はバルマン三条さんこと鈴木京香というよりはディレクトールの西村雅彦ってところか、しかし、かんじんのシェフ山口智子ほかのチームワークを発揮する面々がいなくて、けっきょくレストランを大泉洋にいいように乗っ取られるみたいなはなし。というとけっこうきのめいるおはなしになる。まぁ、べつのはなしをかってに対応させて文句を言ってても仕方ないわけだけれど。
『ステキな金縛り』みた。まぁ、三谷幸喜だしいいわね。
『映画大好きポンポさん』みた。
通勤電車で読む『サッカーを「観る」技術』。2002年W杯日韓大会にむけて出た本。サッカーを知ってる人は何を「見て」いるのか。
インザーギが挑むヘディングの競り合いで、こぼれる「かもしれない」ボールを狙うため、後ろ手にポジショニングしていたフィオーレがスタートを切った。また同時にコンテも、後方から、バックアップのためのフリーランニングをスタートしていた。素晴らしい「ボールがないところ」での予測アクション。言葉を換えれば、それは「クリエイティブな無駄走り」とも表現できる。「たぶんこの動きはムダに終わってしまうんだろうな」と思いながらも、僅かな可能性に賭けて脳内ディスプレイに鮮明に描き出された「イメージ」に忠実にアクションを起こす。それこそが「世界の一流」の証明なのである。
まず、インザーギが相手とのヘディングの競り合いに勝ち、後方から走りこんでくるフィオーレの前方のスペースへ正確にボールを送った。その「ヘディングパス」へ寄っていくフィオーレは、一瞬、「ドリブル勝負を仕掛けるぞ!」「シュートを打つぞ!」という素振りを見せる。まだボールに触ってはいないが、その一瞬前の段階から「フェイク」の動作を入れいていたのだ。
ヘディングに競り勝ったインザーギはというと、着地した瞬間にターンし、ウラのスペースへ爆発ダッシュをスタートしていた(彼のマーカーは完璧に置き去り!!)。ワンプレーの後の「次のプレー」に対する強烈な意識、「さすが、アズーリ!」。
さて、ボールを持ったフィオーレ。彼の「フェイク動作」で、トルコのスイーパー、そしてトッティのマーカーの意識が、完璧に「引きつけられ」てしまう。ただフィオーレは、ボールをトラップせず、「ダイレクト」で勝負パスを送り込んできたのだ。それは、インザーギの走りこむウラのスペースへ向けた決定的な浮き球パスとなった。完璧な「ウラ取り」コンビネーション。
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…とまぁ、図を何枚か入れながら、こんなかんじで、著者の人は、「本書では、組織プレーの神髄ともいえるシーンを「5秒間のドラマ」として描写することで、サッカーの奥深い魅力を表現することにチャレンジした」ということで、まぁノリノリで記述している。
まぁ、これ、だから、(何枚かの図というよりは)読みながらビデオとかをくりかえし巻き戻したりスローにしたりしながら見たらあるていど面白いだろうなあと思う。そういう感じの記述。でまぁしかし、この著者の人の記述そのものを分析したら面白いかなという気もする。著者の人は敵味方の選手たちの意識に自由自在に入り込んで意図とか「共有されたイメージ」とかを記述するわけで、それができていることで「サッカーの実況中継を見て楽しむこと」をしてるなあ、と見える。もちろん、こういう見方をせずに単に日本が勝った負けただけで一喜一憂するみたいな楽しみ方(わたくしはだいたいあらゆるスポーツについてにわか的なそういう楽しみ方をしている)も、げんにされているわけだし、それはそれでありとして、しかし、まぁサッカーを知って楽しんでる人の楽しみ方というのは例えばこんな感じになるよ、というのが垣間見えそう。