多木浩二『20世紀の精神』

20世紀の精神―書物の伝えるもの (平凡社新書)

20世紀の精神―書物の伝えるもの (平凡社新書)

ひまつぶしに買って、ほうっておいたのをとりだして通勤電車でぱらぱらと読んだ。まぁ、20世紀の名著を6冊あげてブックガイドエッセイを書いた、というていのもので、まぁそういうものか、という感想。
ただ、妙に気にとまる一節が。
ゴドーを待ちながら』についてのエッセイの中の一節。

年をとるということは夥しい経験を重ねるにつれて、思慮深くなり、穏やかな人生を営むようになるかといえばそうではない。老年とは、幸福な余生を送ることにはならないのだ。世間から凋落することだ。だからラディカルになるか、のたれ死ぬかのどちらかだ。
長いあいだ生きてきて、死に近づいた年頃になると、抽象的な存在になっていくこともたしかだし、世間ではいろいろな災難に遭い、痛めつけられながら、唯一、積極的なこととしては、決して知ることができない根源的な問いを自分で求めることを自覚しはじめることである。世界を生きる意味を知ることに一切をかけるようになる。根本的な願望ほど、他人から見ると妄想に見える。老人が妄想に取りつかれるようにみえるのは、むしろそんな願望が生まれることである。・・・
老年になると若年の頃の欲得ずくが馬鹿げて見える。老年の問いには若年の問いと違った強さがある。落ちぶれたならそれなりに生きればいいと腹も決まってくる。・・・

あるいは

この芝居のなかにはいろいろわざとらしい遊びがある。・・・
それに較べると、たった一本ある木に首を吊ろうというのは遊びと言うには、危険な話である。本気ではないだろうが、まんざら嘘でもない。彼らほど年をとり、落ちぶれてしまうと、もはや生きるも死ぬもたいして変わらなくなる。死が生の充実になりうるからである。老年の強さは迫りくる死の強さである。だがそれもまだゲームを越えない。彼らはまだ死ぬわけにはいかない。・・・

なんだか、みょうに切迫した老年論だなあという感じ。
あの素晴らしい丹生谷貴志『死体は窓から投げ捨てよ』

死体は窓から投げ捨てよ

死体は窓から投げ捨てよ

に似た感触の(でもちょっとカサカサ感や滑稽さに欠けちゃうのだけれど)、老いと死をめぐる、引っ掛かりのある文章。
前にも触れた(http://d.hatena.ne.jp/k-i-t/20041127#p2)『死の鏡』という本をこの著者は書いていて、
死の鏡―一枚の写真から考えたこと

死の鏡―一枚の写真から考えたこと

その本のあとがきでは、著者のある時期の様子を見た人たちからは「死の誘惑に取り付かれているのではないかともいわれた」、とかゆってる。そのことを思い出させる妙な切迫ぶりではあるなあ。