キルケゴール『反復』、蓮實『ゴダール革命』

某日、大きめの書店に行って蓮實重彦ゴダール革命』を購入。ついでにいろいろ見ていたら、岩波文庫で『反復』が出ていたのでこれも購入。

ゴダール革命 (リュミエール叢書 37)

ゴダール革命 (リュミエール叢書 37)

反復 (岩波文庫)

反復 (岩波文庫)

『反復』のほうは、ドゥルーズの『差異と反復』にいきなり名前がでていたことがあって、気になっていたので買ったのだけれど、目を通してみたのだけれど、自伝的要素を背景に、ある青年詩人の恋愛事件を物語る、みたいな、小説ともなんともつかないうだうだした文章で、しかも途中で書簡体になったり、自作解説がくっついてたり、前半と後半と順序がひっくり返してあったりといった、叙述の仕掛けがいろいろ仕掛けられている上に、いちおうプラトンの想起説やヘーゲル弁証法が早口でいみありげに言及されたり、さっぱり頭に入ってこないんでまいった。この文章の哲学的な要点のところだけを5ページほどで要約してくれ、と思いながら読んだ。
ゴダール革命』のほうは、なにせファンなので買って、読んでファンなので満足した。
ゴダールの映画って、わからないのだけれど、わからないというと、わかるとかわからないとかいう次元で見てるのがダメ、とか言われてしまう、という種類の、やっかいな映画なわけで、そうすると、わかるとかわからないとかいわずにただ見てるしかないんで、そうすると、本を書こうとしたって、わかったようなことを書くことが出来ないってことになる。べつに、書いてもいいのだろうし、書こうと思えば申し分なく書けるのだろうけれど、それはゴダールをわかったことにはならない、みたいなことになってくるんで、ただ見る、しかないんだったら、ただ見た、と書く以上になにも書けないはずなのだけれど、まぁそうすると短冊いちまいで済んでしまって本にならないので、ただ見ることやただ見られるだけの映画をただ撮ることについて、うだうだと書いていくことになって、それがあんがいむつかしいことになる。ただ見るのもむつかしいし、ただ見られるだけの映画をただ撮るというのもむつかしいんで、それを説明するのもむつかしい。というわけで、結構な分量の文章が書かれてありながら、ゴダールについて何か新しいことがわかったかというと新しいことなどさっぱりわからない文章を、ただ読んだ、ということになる。ただ読まれるためだけの文章を書いてあるのだから、この本もゴダール?かというと、まぁ、あそこまで無愛想ではないので、まぁ、ふつうにわかる本ではある。最初の章なんか、かなりぐっときちゃったと思う。でもなにがといわれると困る。そういう本。