通勤電車で読む『社会とは何か』。

社会とは何か―システムからプロセスへ (中公新書)

社会とは何か―システムからプロセスへ (中公新書)

印象派』といっしょに学校帰りの商店街の本屋さんでついでに買ってた本で、電車で読んだ。民族学とか社会人類学のひとってことで、でも内容としては社会学、っていうか、社会学批判、っていうか。
「社会」っていう概念って、自明じゃないよね、っていうおはなしで、「国家」でも「共同体」でもないものとしての「社会」っていうのが、いつどのようにうまれたか、そもそもアリストテレスがいて、でも現在のような意味になるには17世紀以降のヨーロッパでの歴史的経緯がありました、王政から民主制へ、資本主義近代と国民国家ナショナリズムが展開して、そのなかで「社会」って概念がいまのかたちに自明化していきました、みたいな。ホッブズ、ルソー、ケネー、アダム・スミス、あたりから、サン・シモン、フーリエプルードンとかの社会主義者とコントやデュルケーム社会学が双子みたいに生まれてくるあたりの話というのは、おもしろい。フーコーを援用したりして。
なんだけど、デュルケーム保守主義だみたいな批判の仕方におちついてしまっちゃうと、なんかねえ、という気にならなくはない。
「社会」が国民国家の成立によって生まれた、としたら、「社会」の輪郭は「国家」の輪郭と重ね合わせて概念されちゃうことになるわけで、なんとなくのっぺりと一枚岩の、しかも国家を補完するような道徳的システム、みたいなことになっちゃいますよ、と。デュルケームが『分業論』で、法律の分析から社会的連帯を論じてるのだってそういうことなんですよう、という口ぶりで、うーん、なんかなあ、というかんじ。
そんで、社会は一枚岩ではないです、矛盾葛藤をふくんだコミュニティと公共圏の複合なんです、プロセスなんです、あるいはプロセスにしてかなあかんのです、みたいなオチ。まぁねえ、それを言うためにデュルケームの通念的批判を言わないといけないのかねえ。とは思った。