カミソリ坂田が亡くなってしまった。ごめいふくを。

いつものように日曜のお昼、碁を見ていて、趙が解説でたのしく、アルコールを入れつつふわふわと、知念ちゃんが予定通り惜敗するところを見ていたのだけれど、番組がおわったときにパッと、カミソリ坂田が亡くなったというニュース画面が出て「あっ」と思った。
http://www.jiji.com/jc/c?g=obt_30&k=2010102200626

坂田栄男さん死去=カミソリの異名、本因坊7連覇

 カミソリと評される鋭い棋風で史上初の名人・本因坊となった囲碁坂田栄男(さかた・えいお)さんが22日午後0時21分、胸部動脈瘤(りゅう)破裂のため東京都渋谷区の病院で死去した。90歳だった。東京都出身。葬儀は近親者のみで行う。喪主は妻鉄枝(てつえ)さん。
 1929年、9歳で増淵辰子八段(故人)に入門し、35年に入段、55年に九段。独自の切れ味を持つ棋風は「カミソリ坂田」の異名を取った。勝負に妥協を許さず、苦しいと思われた石を絶妙の手段でしのぐ技から、「シノギの坂田」とも呼ばれ、迫力満点の戦いを展開してファンを魅了した。
 61年に高川秀格本因坊の10連覇を阻んで本因坊に就位。以後7連覇を達成、二十三世本因坊の資格を持つ。63年に名人を獲得、初めて名人・本因坊となった。翌64年には年間30勝2敗の驚異的な好成績で7タイトルを独占した。 
 タイトル獲得数は64に上り、棋界に「坂田時代」を築いた。公式戦29連勝などの快記録を樹立。
 80年紫綬褒章、90年勲二等瑞宝章受章。92年には囲碁界から初めて文化功労者に選ばれた。門下に新垣武九段ら。(2010/10/22-18:11)

http://mainichi.jp/enta/igo/news/20101023ddm041040050000c.html

坂田栄男さん死去:不惑過ぎ、大輪の花 「1強時代」を築く

 「カミソリ坂田」と呼ばれ、一時は無敵の強さを誇った囲碁棋士坂田栄男(さかたえいお)さんが22日、90歳で亡くなった。囲碁界は藤沢秀行名誉棋聖(昨年5月、83歳で死去)に続き、昭和の名勝負を繰り広げた重鎮を失った。

 1951年、31歳で本因坊に初挑戦。橋本宇太郎本因坊を3勝1敗と追い込みながら、3連敗し、ビッグタイトルを逃した。それからの10年間は「自分をののしり、叱咤(しった)激励しながら、文字通り苦節の期間だった」という。

 大きく花開いたのは40歳を過ぎてからだった。61年、10連覇を目指す高川秀格本因坊を4勝1敗で破り、念願の栄冠を手に入れた。以降、「坂田は遠くなりにけり」と言われるほどの「1強時代」を築き上げた。

 50歳を過ぎても実力を発揮した。75年には55歳で石田秀芳本因坊に挑戦。しかも3勝1敗と追い詰め、囲碁ファンをわかせた。だが、第5局の最終盤で大きなミスをしてしまい、勝利を取り逃がす。第6、7局でも敗れ、惜しくも「55歳本因坊」の快挙を果たせなかった。そのことを後々まで悔しがった。

 藤沢名誉棋聖と同様、豪快に酒を飲み、思ったことをきっぱり言うなど、数少なくなった「無頼派」の棋士でもあった。各界の著名人とも交流を重ね、囲碁界のすそ野を広げることに力を尽くした。【金沢盛栄】

http://mainichi.jp/enta/igo/news/20101022k0000e040078000c.html

坂田栄男さん死去:昔かたぎの無頼派 勝負に強い執念
過去の対局を並べ、振り返る坂田栄男さん
過去の対局を並べ、振り返る坂田栄男さん

 藤沢秀行名誉棋聖(昨年5月死去)に続き、囲碁界の重鎮である坂田栄男さんが、この世を去った。

 全盛時の強さは皆の知るところだが、世間を驚かせたのが晩年、石田秀芳本因坊に挑戦した第30期本因坊七番勝負。55歳での挑戦というのもビッグニュースだったが、石田を3勝2敗と追い詰め、本因坊復位という前代未聞の快挙が目前だった。しかし、第6、7局と連敗して、奪取に失敗。第6局は勝利直前まで迫っていただけに、「あの一局は本当に悔しかった」と後々になっても、ことあるごとに振り返り、勝負へのあくなき執念をみせた。

 数少ない昔かたぎの無頼派棋士の一人だった。川端康成近藤啓太郎ら、文化人とも幅広く交流した。
 ◇「本当に残念」

 日本棋院大竹英雄理事長は「本当に残念。お具合が悪いと聞いており、今日、お見舞いにうかがうつもりだった。昭和の時代が生んだ強烈な力を持った棋士だった。長く日本棋院理事長も務められ、我々後輩が学んだものは計り知れない。今後は、我々が囲碁界をさらに発展させることで恩返しをしていきたい」と語った。
 ◇「動揺している」

 坂田さんの一番弟子である囲碁棋士の新垣武九段は「知らせを聞いて動揺しています。『自分は教えない、技術は盗みなさい』と言われ、対局ですべてを示す先生でした。集中力を要するシノギで勝つ戦法は、まさにカミソリのニックネームがピッタリ。弟子にとっては偉大すぎる先生で、昭和の巨人でした」と師匠を悼んだ。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2010102302000039.html

坂田栄男23世本因坊死去 「カミソリ」棋界に君臨

2010年10月23日 朝刊
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 「カミソリ坂田」と呼ばれた囲碁の二十三世本因坊坂田栄男(さかた・えいお、本因坊栄寿=えいじゅ)さんが二十二日午後零時二十一分、胸部大動脈瘤(りゅう)破裂のため東京都渋谷区の病院で死去した。九十歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は妻鉄枝(てつえ)さん。

 一九二九年、増淵辰子八段に入門。三五年入段、六一年の第十六期本因坊戦で高川秀格本因坊の十連覇を阻む。その後、五連覇で名誉本因坊の資格を得て、連覇を七まで伸ばした。六三年に藤沢秀行名人に勝って史上初の「名人・本因坊」となった。

 六四年にも名人、本因坊など七タイトルを制覇し、公式戦二十九連勝の記録をつくった。

 通算獲得タイトル数は本因坊七、十段五、王座七など史上二位の六十四。

 鋭い着手で最盛時には将棋の故大山康晴十五世名人と並び称せられるなど一時代を築き、通算千三十二勝を挙げて二〇〇〇年に現役を引退した。

 一九八〇年に紫綬褒章、九〇年には勲二等瑞宝章も受章した。九二年には囲碁界初の文化功労者に選出。七八年から八年間、日本棋院理事長を務めた。門下には新垣武九段、佐々木正八段ら。昨年から日本棋院名誉顧問。

 昨年五月に亡くなった藤沢名誉棋聖に続き、囲碁界は「昭和の大棋士」を失った。

http://sankei.jp.msn.com/culture/igo/101022/igo1010221914002-n1.htm

坂田栄男さん死去】昭和の最強棋士旅立つ
2010.10.22 19:14
1963年、第18期本因坊戦でたばこを吸う坂田栄男さん=撮影場所不明(日本棋院提供)1963年、第18期本因坊戦でたばこを吸う坂田栄男さん=撮影場所不明(日本棋院提供)

 孤高の覇者だった。22日、90歳で死去した囲碁坂田栄男(えいお)さん。「碁は誰からも教えられるものではなく、教えるものでもない。自分で勝ち取っていくもの」が口ぐせ。昭和39年、当時の8タイトルのうち7つを制覇、年間30勝2敗の空前絶後の記録を樹立した。唯一、取れなかった十段位も、41年に奪取。65年のプロ人生で1117勝をあげ、64のタイトルを獲得した。

 雑貨商を営み、碁や賭け事が好きだった父の見よう見まねで碁を覚えた。

 中盤以降が特に鋭いことから「しのぎの坂田」、集中力を要する場面では決して緩むことがない鋭い棋風から「カミソリ坂田」とも。38年の第2期旧名人戦第7局では後に「坂田の外ノゾキ」と呼ばれた名手を放ち、これを境に形勢が逆転、ライバルの藤沢秀行さんから名人位を奪った。

 数々の名勝負を繰り広げた日本棋院理事長の大竹英雄さんは、「持っている力すべてを碁盤にぶつけ、対局に臨まれる姿が印象的だった」。平成14年に坂田さんの優勝回数を抜いた趙治勲さんは、「私の(6年後の)還暦と、坂田先生の96歳のお祝いを一緒にしましょうと話していたのに…」と言葉を失った。

 作家の川端康成ら文化人、福田赳夫元首相ら政界関係者とも親交があった。平成12年1月には、鐵枝夫人を伴い、「80歳をもって引退したい」と会見。それから10年、鐵枝夫人に見送られ、昭和の最強棋士は旅立った。

http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20101022-OYT1T00771.htm

囲碁坂田栄男・二十三世本因坊が死去

 「シノギの坂田」「カミソリ坂田」と呼ばれ、戦後囲碁界に大きな足跡を残した二十三世本因坊坂田栄男(さかた・えいお)さんが、22日午後0時21分、胸部大動脈瘤(りゅう)破裂のため東京都内の病院で亡くなった。90歳。葬儀は近親者のみで行う。喪主は妻、鐵枝(てつえ)さん。

 東京生まれ。15歳でプロ入り。1961年、9連覇中の高川格本因坊を下して本因坊を獲得、以降7連覇した。63年には名人を奪取、史上初の2大タイトル制覇を達成した。

 鋭く絶妙な手筋で相手を翻弄(ほんろう)。「打つ碁は全部勝ちたい」が口癖だった。64年には八つのタイトル戦のうち七つを制するなど、碁界の記録を次々に塗り替えた。通算タイトル獲得数64は、2002年に趙治勲二十五世本因坊に抜かれるまで長く歴代最高だった。

 78年から日本棋院理事長を4期務め、92年に囲碁界で初めて文化功労者に選ばれた。
(2010年10月22日15時46分 読売新聞)