いまさら知った。天才藤沢秀行名誉棋聖が亡くなっていた。ごめいふくを。

帰宅して、録画しておいた本因坊戦をなんとなく見ていたら、挑戦者高尾くんの紹介の流れで、師匠の天才藤沢秀行名誉棋聖が去る5月日に亡くなったということをさらっと言っていて、ああーと思った。
このところ週末に行事が入って、「囲碁将棋ジャーナル」も見れてなかったので、ふつうの訃報を見落としていたら気づかないままいままで知らなかったのである。
殺し屋加藤とともに、じぶんがさいしょにファンになった棋士のひとりで、なぜかここにweblogを書き始めた頃に殺し屋加藤が亡くなってしまい、こんどは天才藤沢秀行が亡くなってしまった。

囲碁棋聖6連覇、藤沢秀行さんが死去


第2期棋聖戦で防衛を果たした頃の藤沢名誉棋聖。たばこは対局中も手放さなかった(1978年4月) 豪快、華麗な棋風で、囲碁界最高のタイトル「棋聖」6連覇を果たした藤沢秀行(ふじさわ・ひでゆき、本名・保=たもつ)さんが8日午前7時16分、誤嚥性(ごえんせい)肺炎のため、東京都中央区聖路加国際病院で亡くなった。83歳だった。

 葬儀は親族のみで行う。後日、偲(しの)ぶ会を行う予定。自宅は非公表。喪主は妻、モトさん、長男、秀樹(ひでき)さん。

 横浜市生まれ。1940年入段、63年九段。この間の62年、旧名人決定リーグで優勝し第1期名人となった。さらに77年、第1期棋聖決勝七番勝負で橋本宇太郎九段を4勝1敗で破って棋聖を獲得。以来、棋聖防衛に執念を燃やし、6連覇の偉業を達成。名誉棋聖の資格を獲得し、囲碁界に不動の地位を築いた。

 このほか天元1期、王座5期などタイトル獲得数は通算23にのぼる。

 87年、紫綬褒章、97年、勲三等旭日中綬章受章。

 ◆酒・ギャンブル・3度のがん◆

 その人生は破天荒で、酒、ギャンブル、借金などをめぐって様々なエピソードを残した。

 また3度にわたってがんを克服。晩年まで若手の育成に心血を注いだ。

 20代後半から競輪にのめり込み、30歳を過ぎてからは酒を愛し、酒のにおいを残して対局に臨むなど、多くの逸話を残した。不動産業に手を出したり、囲碁ツアーなども企画したりしたが、赤字で億単位の借金を抱え、最高の賞金額である棋聖戦に勝つことが“最後の勝負手”ともいわれた。防衛戦の1か月前から断酒して七番勝負に臨んだ執念は、語り草となった。

 昨年、足の骨折で2度入院。一度は自宅に戻ったが、ものを食べる際に細菌などが誤って気管に入り込む誤嚥性肺炎を起こし、今年3月から聖路加国際病院に入院していた。延命的な治療を拒否し、「碁も十分に打った。がんも3度やっつけた。やりたいように生きてきた。死ぬまでは生きる。死んだように生きたくはない」と話していた。本人の希望で、遺骨は広島県厳島神社の海に散骨されるという。(文化部 岡崎裕哉)

(2009年5月8日09時27分 読売新聞)

とか

藤沢秀行さん死去、酒とばくちと囲碁愛し

 棋聖戦6連覇など通算23タイトルを獲得した囲碁棋士藤沢秀行(ふじさわ・ひでゆき=本名保=たもつ)さんが8日午前7時16分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため都内の病院で亡くなった。83歳。横浜市出身。自宅は非公表。葬儀・告別式は親族のみで行う。喪主は妻モトさんと長男秀樹(ひでき)氏。豪放磊落(らいらく)な打ち方でファンが多く、型破りな私生活でも有名だった。その一方でプロアマを問わず若手の育成に尽力した。

 藤沢さんは、眠るように人生の終局を迎えた。5男で同じ囲碁棋士の藤沢一就(かずなり)8段(44)によると、入院先の病院で4日夜から意識不明に陥り、そのまま逝ったという。

 昨年春、東京・京王閣競輪場で転倒して骨折。さらに同年暮れに自宅で骨折した後に体力が衰え、食べた物が肺に入るなど、入退院を繰り返していた。83年に胃がんを克服するなど、逆境をはね返した精神力も最後は力尽きた。

 「異常感覚」とまでいわれた独創的な打ち方は、豪快かつ華麗で、ファンを魅了した。「定石や人まねだけでは勝てない。自由奔放に打つのが醍醐味(だいごみ)」と公言していた。62年の第1期名人戦を制したのをはじめ、天元戦、棋聖戦など新たに創設された棋戦にめっぽう強く「初物食いの秀行」といわれた。

 その異名は私生活で“証明”した。「タイトルは、できるたびに賞金が上がっていく。昔から競輪が好きで、金がほしいから燃えるんだよ」。後楽園競輪で250万円を取り、それを花月園競輪で480万円にしたこともある。半面、多額の借金をつくり「返済のために囲碁の対局をしている」といわれたこともあった。弟子の高尾紳路9段(32)はかつて「この間の棋譜を持って東京競馬場に来い」と言われたことがある。「師匠らしい呼び出し方でしょう」と振り返る。

 だが囲碁への情熱は衰えなかった。91年に66歳で王座を獲得。男性プロのタイトル史上最高齢獲得記録は破られていない。プロ、アマを問わず後進の育成にも熱心で、神奈川県内で「秀行塾」を開催。趙治勲25世本因坊(52)依田紀基9段(43)や高尾らを鍛えた。

 最近は孫娘の里菜さん(小5)の将来を楽しみにしていた。今年3月、全日本女流アマ選手権戦でベスト4入りし、4月からプロを目指すことになったが、そのデビューを永遠に見られないのが心残りに違いない。【赤塚辰浩】

 [2009年5月9日8時52分 紙面から]

とか

名誉棋聖藤沢秀行さんが死去
2009.5.8 09:31
囲碁藤沢秀行名誉棋聖(撮影・北野浩之) 豪快、華麗な棋風でファンを魅了した囲碁の名誉棋聖藤沢秀行(ふじさわ・ひでゆき、本名・保=たもつ)さんが8日午前7時16分、肺炎のため東京都内の病院で亡くなった。83歳だった。葬儀は親族のみで行い、後日お別れ会を開く。喪主は妻、モトさんと長男、秀樹(ひでき)さん。

 横浜市生まれ。昭和15年に入段、38年に九段。この間の37年、旧名人戦の第1期名人位に就いたのをはじめ、次々にタイトルを獲得。45年に第9期名人位に返り咲いた。さらに52年に最高賞金額の棋聖戦が発足すると、第1期からいきなり6連覇を達成し、名誉棋聖の資格を得た。

 その後、二度にわたってがんと闘病するが復活を果たし、平成3年に66歳で王座を獲得し、翌年も防衛。67歳でのタイトル獲得は最年長記録となっている。獲得タイトルは23。

 育成にも熱心で、毎年行っていた若手の合宿「秀行塾(しゆうこうじゆく)」からは彦坂直人九段、依田紀基九段らの俊英が次々に巣立った。

 昭和62年に紫綬褒章、平成9年に勲三等旭日中綬章を受章。10年10月に突然引退を表明した。翌11年には日本棋院を脱退して「日本棋院の免状は高すぎる」と独自の免状を発行して棋界を驚かせた。この問題で日本棋院を除名されるが、15年に和解して復帰した。

とか

藤沢秀行氏死去 「世界の棋士のあこがれ」大竹英雄日本棋院理事長
2009.5.8 12:32
 大竹英雄日本棋院理事長の話 「日本だけでなく、世界の囲碁棋士のあこがれの先生でした。いろんな方面で多くのものを残されました。先生にはありがとうございます、おつかれさまでしたといいたい。ご冥福をお祈りいたします」

藤沢秀行氏死去 「豪快だった」林海峰名誉天元
2009.5.8 11:51
 ■林海峰・名誉天元の話 「自分が日本に来て間もないころから随分指導していただいた。棋風に厚みがあり、いろいろな意味で豪快だった。大変お世話になりました

「背中を見て碁打ちになった」 藤沢さんの弟子、高尾紳路九段
2009.5.8 10:13

高尾紳路九段の十段就位式(当時)で祝辞を述べる師匠の藤沢秀行名誉棋聖=2008年06月17日(撮影・小松洋) 「今朝6時ごろ、家族の人に『額に手を当ててください』といわれて、先生に触れたのが最後の別れになりました」

 弟子の高尾紳路九段は、対局の終わった昨夜から藤沢さんの入院していた病室につめていたというが、病院を離れた直後に訃報が追いかけてきた。

 「ぼくにとってはかけがえのない師匠です。師匠の背中を見て碁打ちになった。先生からは、礼に始まるという碁に対する姿勢を教わりました。繊細で、神経の細やかな方でした」

 藤沢さんが「伝えたいことがある」と言っていると聞いて、2週間前にも病院に呼ばれていたという。「そのときにはもう声が出なくて、会話はできませんでした。何を伝えたかったのか分からず、今ではそれが心残りです」

藤沢秀行名誉棋聖、独創的な棋風で一時代
2009.5.8 11:45

平成4年11月、小林光一棋聖(右)と対局する藤沢秀行王座=神奈川県秦野市鶴巻温泉日本棋院提供) 豪放磊落(らいらく)な性格で、囲碁界きっての酒豪だったが、1983年の棋聖戦の直後に胃がんで胃の4分の3を切除し酒を断つ。その後も別の個所のがんを患うなど病魔に苦しめられた。しかし、逆境を見事にはね返す精神力には恐れ入った。

 91年、66歳で王座のタイトルを奪取し、最高齢タイトル獲得記録を塗り替えた。獲得タイトル・棋戦優勝は通算23。「碁は芸術」が持論だった。

 「定石や人まねだけでは勝てない。個性を尊び、自由奔放に打つことが醍醐味(だいごみ)」と語り、スケールの大きい、厚い、独創的な棋風で一時代を担った。

 若いころは競輪、競馬に凝って多額の借金をつくり、「借金返済のために碁を打っている」と陰口をたたかれた時期もあった。

 若い棋士のため自宅や事務所を「秀行塾」として開放。大竹英雄名誉碁聖趙治勲二十五世本因坊らも腕を磨いた。約30年前から海外交流にも尽力、特に中国の実力向上に大きく貢献した。

 87年に紫綬褒章、97年に勲三等旭日中綬章を受章。打碁集、エッセーなど多数の著書がある。(共同通信編集委員 津江章二)