哲学の人が、人生はゲームなのか、という問いでちくまプリマー新書一冊書いた本。でまぁ「人生はゲームではない」が結論で、まぁ、へえというかんじ。でまぁこういうのは定義によるよなあと思うわけだけれど、いちおう著者の人は、「ゲームとは何か」の「条件」として、「目指すべき目的・終わりがあること」と「ルールがあること」を挙げて、それを人生に当てはめると、人生にルールはあるけれど目指すべき目的はないよ、ということになって、したがって「人生はゲームではない」という結論が得られる。でまぁここまででパートI、おおよそ60ページ分ぐらいで、そこから先は、さらにいろいろ吟味していくよ、ということになる。でまぁ、書き方としては、授業で学生さんが出した意見とか疑問とかを紹介しながらそれを手掛かりに、いわば弁証法的に、定義を修正したり含意を導き出したりしていくわけだけれど、そういうやりかたは、途中のちょっとした論証がなっとくいかないと、そこからさきを信用できなくなるというところがある。たとえば、「ゲームはリセットできるが人生はリセットできない」に対して著者の人が、ゲームもリセットできない場合がある、リセットできるというのはコンピューターゲームだけを念頭にしているからだが、たとえば昨日の巨人阪神戦の結果が気に入らないからリセットしたいといってもできない、つまりリセットできないゲームもあるじゃないか、したがって「ゲームだってリセットできるとは限らない」と言うわけだけれど、それはそういうことじゃないだろう、そういう言い方は混乱してるだろう。昨日の巨人阪神戦がリセットできないというなら同じ意味で昨日やったテレビゲームだってリセットできない。テレビゲームがリセットできるというなら同じ意味でプロ野球だってリセットできる。あるプレイがゲームオーバーになってもう一度最初からプレイできるのはテレビゲームでもプロ野球でもおなじことだし、シーズンが変わればなおいっそうリセットされる。テレビゲームも複数人でプレイしていればだれか一人が勝手にリセットすることはできないだろうし、逆に、プロ野球だって両チームの合意があれば(たとえば雨天ノーゲーム再試合とか)リセットできる。べつに、一冊の本の中のちょっとした例のひとつではあるけれど、なんか雑に進められてると、えー?と思うよと。別の例で行くと、「料理にはルールがないからゲームではない」というときに学生さんが「毒を入れない、というルールがあるのでは」と疑問を呈し、それに対して著者の人が、「毒を入れない、というのは、料理自体のルールというより、人を殺さない、という、より一般的なルールである(大意)」としている。いやいやいや、毒を入れないというのは料理のルールであろう。毒を入れないというのは、食べられるものを作るべし、食べられないものを作ってはならない、ということで、ジャガイモの芽とか口を開けない貝とかフグの内臓とか生レバーとか鳥の生肉とか、有毒なものを排除することは料理という活動の手順を統御する重要なルールでしょう、等々。まぁいいけど。
「人生には外がない(ゲームには外がある)」というあたりのはなしのもっていきかたは面白そうだったが、なんとなく「人生」という言葉の使い方が雑だからかなあという気もしなくもない。シュッツみたいな「多元的現実」みたいなことをいうとすれば、私たちの「生」の地平みたいなものには「外」がないよ、そのうえで私たちが生きるいろいろな現実は「ゲーム」みたいなものだよ、という言い方もできそうだけれど、前者を「人生」と呼んでいいのかと言われるとちょっとわからない。ごくふつうにかんがえて、多元的現実、というのは、多層的な現実でもあって、いくつかの階層を成してる、みたいないい方はできるだろうけれど、そのいちばん基盤の地平を成す、ただ生きているという次元を「人生」と言えるのか、そうじゃなくてそのただ生きている生の地平の上に、なんらかの意味的な起承転結として仮構されている次元を「人生」と呼ぶほうが常識的な感覚に合うのではないか、という気もする。しらんけど。