『笑犬楼vs.偽伯爵』読んだ。筒井康隆と蓮實重彦の対談・往復書簡が本になる未来が来たとはねえ。

ふいにAmazonのおすすめに出てきて、おや、と思って購入。通勤電車で、と一瞬、かばんに入れかけたけれど、まぁやはりこれは下宿でゆっくり読もうということで。筒井康隆蓮實重彦という顔合わせの本を読むことになるとは思わなかったけれど、じつはこの本の前半の、大江健三郎をめぐる対談は、雑誌初出の時に、え?と思って買って読んでた。それで、へえ、意外に話が合うのかあ、となんとなく思っていた印象はある。筒井康隆も意外とあまり通ってきていなくて、たしか『虚人たち』が新聞の文芸時評三浦雅士だったか)で紹介されてたのを高校のときかなにかに読んで、で、中公文庫で読んで(おかしいな、文庫化されてたのなら新聞の時評で読んですぐ読んだんじゃないよな…)、なるほどすごいとか思ったのがたしか最初で、そのあとショートショートのを一冊か何冊かそこら読んだのが大学のころで、まぁ世代的には筒井康隆は必修みたいなかんじではあったんだけれど、たしか夏休みに散歩で近所のスーパーの書籍コーナーの少ない本の中で買った『乱調文学大辞典』かな?で「デカダンス」の語釈で「和田アキ子のモンキーダンス」と書いてあったところであまりのばかばかしさに笑ったという印象があるていど。それで、その後、渡部直己『Hello Good-bye 筒井康隆』で批判しているのを読んだり、ちょうどうちの新聞が新聞小説朝のガスパール』を始めたので読みはじめたらさいしょのあたりでは画期的なのかと思っていたのがあっというまになんか思ってたかんじと違うなあという風になって、まぁ院生の時に指導教官のひとりとか先輩とかが『文学部唯野教授』がおもしろいと言っていていやちょっとそれはどうなのかと思ったり、まぁ断筆だの差別発言だのあれこれごたごたしてるのを見たらまぁべつにいいかなとなってきた、たまに実験作のうわさが聞こえてくるけれどもまぁいつか読めばいいか、というかんじで今に至るわけである。それで、蓮實重彦というひとは昔から、誰と対談をしても余裕で成立させてしまうので、筒井康隆と対談しても成立してしまうんだよなあとは思っていたけれど、しかし、筒井康隆蓮實重彦の対談・往復書簡が本になる未来が来たとはねえ。さいしょにさっきいった大江健三郎をめぐる対談が収められていて、そのあと、筒井康隆の『伯爵夫人』書評、そして蓮實重彦の『時をかける少女』論(これは書き下ろし)、そして、表題となった往復書簡。往復書簡でへえーと思ったのは、まぁ筒井康隆蓮實重彦がかなり話が嚙み合っているということで、二歳違いとは言え同世代で、まぁ大阪と東京の違いはあれ、天王寺動物園園長や自然史博物館館長の家庭と、美術史家の大学教授の家庭と、まぁ似たり寄ったりと言えば似たり寄ったりで、女中さんに連れられて映画を見に行ったりなどの経験が、つまり、世代的階層的に共有されているんだなあと。そのうえで筒井康隆がああいうかんじなのは、階層的なものに由来するというよりは、「アプレゲール」だったから、という処理のされ方をして、蓮實重彦はほんの二歳違いではあるけれどアプレゲール世代に遅れた世代なのだ、ということで、話が噛み合って進んでいる。そんなもんなのか、と思いつつ、そういうわけで、筒井康隆蓮實重彦の対談・往復書簡が本になる未来に、その本に書いてあったのは昭和のある時期の階級的・世代的な思い出のはなしなのだった。
それはともかく散髪した。今日は店に入ったら誰も客がいなくてすぐ切ってもらえたのではやかった。ほんの一足違いで次の人が、また数分遅れてまた次の人が入ってきたんでもうしわけなかった。