中山文科相:ゆとり教育は「反省すべき」と中学生に謝罪

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20050422k0000m040148000c.html

 中山成彬文部科学相は21日、水戸市茨城大学付属中学校での「スクールミーティング」で、ゆとり教育について「授業時間を減らしたことは反省すべきだと思う」などと中学生に謝罪した。

 中学生からは「学校は勉強する所なのに、総合的な学習の時間のせいで、学校外で勉強するなど逆転現象が起きている」などと厳しい質問が相次いだ。中山文科相は「ゆとり教育の見直しで教科書のページ数も元に戻りつつある。(薄い教科書の)皆さんには申し訳なく思う」と答えた。

 さらに「総合的な学習の時間は、人間力のある子を育てるために導入されたが、全般的な検証を始めたところだ」などと述べた。

 一方、同日に訪れた茨城大付属小学校では、教諭から「総合学習の時間は必要だ。子供が荒れる原因は偏った学力による」などとゆとり教育の維持を訴える意見が相次いだ。これに対し、中山文科相は「総合的な学習の時間は労力や蓄積がないと取り組めない。『こんなことなら基本教科を増やした方がいい』という声も上がっている」と述べた。【高野聡、土屋渓】

毎日新聞 2005年4月22日 0時03分

うーん。
「謝罪」ってこの場合、どうなのかね。
なんか、違和感があるんだけど。
なんだか、「謝罪」という振る舞いじたいが、政治家の点数稼ぎのパフォーマンスになりかねんわけで、だから、軽々しく「謝罪」などという表現を使わないことによってはじめて、「謝罪」というものの重みがでるんやと思う。
このばあい、ほんとうに「ゆとり教育」という方針によって目指されていたものの重さとか、そのために現場でつぎこまれた努力の重さとか、そういうのも全部含めたうえで、何が達成されて何が達成されなかったか、何が失われたか、どこが間違っていてどう変えたらいいのか、みたいなこととかを、ぜんぶ込みで、はじめて「謝罪」というものに重みがでるんで、
それは今の段階ではぜんぜんむりなことやと思う。だから、いまの段階で「謝罪」などといわれても、違和感があると思う。
なんか変な記事だ。