『新潮』の新春号の斎藤美奈子の書評がおもしろかった。渡部直己=金八、わかるわかる!!

出先の図書館で空き時間に文芸誌をチラ見するのが習慣なのだけれど、年末に読んで面白かったのをまた読んでまた面白かった。
http://www.shinchosha.co.jp/shincho/index200601.html
渡部直己メルトダウンする文学への九通の手紙』への書評で、話の枕に、amazonのコメント欄で渡部&スガを「文学界のさまぁ〜ず」と呼んでるのがあって笑った、という話を書いた後に、この新しい本をとりあげて、さまぁ〜ずというよりは、金八のごとき熱血教師(うっとおしいからやめてくれというような愛情で迫ってくる)なのだ、この本の、手紙、という体裁で呼びかけ文体で書いてあるのなんかもまさにそうじゃないか、呼び出しをかけて「そこへ座れ」とかいって説教する感じじゃないか、という見立てをしていて、わかるわかる!!というかんじ。
で、この熱血教師は、たとえば丹生谷貴志村上春樹の小説をちょっと褒めたからといって、丹生谷のほうを呼び出して説教する。村上を直接呼び出さないで丹生谷を呼び出すところがいかにも教師であって、「話の通じそうな優等生」を呼び出して「そこへ座りなさい」「キミともあろうものがどうしたんだ」とか説教、というわけで、そのへんがどうなのよ?、というところが斉藤の目の付け所で、わかるわかる!!というかんじ。というわけで、この書評、渡部の分析のスリリングなところなんかを褒めてないわけでないのだけれど、でも、そうした分析も含めて、けっきょく内輪のなかで褒めたりもめたりしてるだけになってないの?「手紙」という体裁をとるなら「批評にとって宛先とは誰か」っていう問いをきっちり意識してなあかんのちゃう?という指摘をした斎藤のセンスの勝ちなんではと思う。
しかも、この書評を読むと、おちょくり半分ではあれ、渡部の本みてみたくなるもんね。

メルトダウンする文学への九通の手紙

メルトダウンする文学への九通の手紙