いまごろになってなんだけれど、朝日の土曜の朝刊の一面にでかでかと書いてあって違和感を覚えた。たとえば無学無教養な漫画家だのなんだのが振り回しているうちは、黙殺、と思っていたのだけれど、天下の朝日新聞がこれではいかんのではないか。ていうか、こんな雑な言葉しか使えないから、無学無教養な人たちの言動を的確に追及することができないんである(ていうか追及する気があるのか、お追従なのかがそもそもはっきりしないけどね)。
http://www.asahi.com/politics/update/1215/008.html
改正教育基本法が参院可決・成立 59年ぶり初の見直し
2006年12月15日21時55分
安倍首相が今国会の最優先課題に掲げた改正教育基本法が15日、参院本会議で与党の賛成多数で可決され、成立した。戦前の教育の反省から「個の尊重」をうたう基本法は、制定から59年を経て「公の精神」重視に転じた。国会での論戦では、教育への国家介入強化の懸念も指摘された。「教育の憲法」とも呼ばれる基本法が改正されたことで、来年の通常国会以降、多くの関連法や制度の見直しが本格化する。
前文と11カ条という短さの現行法に比べ、改正法には「大学」や「私立学校」「家庭教育」など、新たに七つの条文が加わった。条文の数以上に大きく変わったのは、「個」の尊重から「公」の重視へという根幹をなす理念の変更であり、論争の的になってきた「不当な支配」論に一定の整理がなされたことだ。
改正法の前文でも、現行法にある「個人の尊厳を重んじ」という表現は引き継がれた。だがさらに、「公共の精神を尊び」という文言が加わったことに特徴がある。
「個」の尊重は、教育勅語を中心とする戦前の「国家のための教育」の反省のうえに築かれた、日本国憲法に通じる理念だ。保守層は「行き過ぎた個人主義がまかり通り、公の尊重が置き去りにされている」と繰り返し改正を求めてきた。
国会の審議で、とりわけ議論された末に、新設されたのは「愛国心」条項だ。「伝統と文化を尊重し、我が国と郷土を愛する態度を養う」という表現をめぐり、改正反対派からは「一方的に国が望むような価値観を押しつけるのはおかしい」という指摘が相次いだ。
安倍首相は「日本の伝統と文化を学ぶ姿勢や態度は評価対象にする」と答弁しており、学校現場に与える影響は少なくないとみられる。
もう一つの大きな変更は、国の教育現場への介入がどこまで正当化され得るのか、という点だ。
だれのどういった行為が「不当な支配」にあたるかは、法廷闘争にもなってきた。教職員組合や教育の研究者の多くが「教育内容への国家介入を防ぐための条項だ」と位置づけるのに対し、国は「法に基づいた教育行政は不当な支配にあたらない」という立場をとってきた。
最高裁は76年の大法廷判決で「どちらの論理も一方的」として、国家はある程度教育内容を決められる一方、不当な支配の主体にもなりうるとの解釈を示した。
今回の改正で、教育行政は「法律により行われる」と明記されたことで、国の介入が「不当な支配」と解釈される余地が狭まることは確実だ。
「公」の反対は「私」、「個」の反対は、まあ「全体」とかそういう概念だろう。
今の改革は、公教育の理念を捨てて私的な教育サービス産業に接近しようという方向性なので、
「「公」から「私」へ」というものだろうし、
保守層は「行き過ぎた個人主義がまかり通り、公の尊重が置き去りにされている」と繰り返し改正を求め
といった言い方からすれば、保守層の願望は
「「個」から「全体」へ」という方向性だろう。
なので、これを合体させると、
「公−個」が抹消されて「私−全体」が表に出てくる、という構図だろう。
ワタミの社長なんかは学校教育のサービス産業化を目指していて、まぁ市場主義っていうかグローバル資本主義の論理。
あべちゃんなんかは、伝統主義で国家主義で、ようするに何を保守したいのかがよく分からんけれどとにかく保守主義。
そうすると、両者がなぜ仲良くできるのかがわからんっていうかわかるっていうか同床異夢っていうか呉越同舟っていうか、単純にいってしまうとグローバル資本主義が「公」を食い荒らして社会が傷んでいるのに、あべちゃんあたりはトンチンカンに、もう内容空疎でハリボテみたいになってしまっている「国家」とか「伝統」とかを持ち出してごういんに締め付けをはかろうとする、しかも伝統的社会は身分制があって美しかったなァ的な反動的な感慨を、グローバル資本主義が作り出す情け容赦のない格差や貧困化にぼんやりと重ね合わせて、少数のエリート美しい!美しい国!みたいな気休めを言いたいみたいな、そんなとこじゃないかな。
しかし、絵に描いたような「国家と資本主義」の構図でっせ。レーニンじゃないっつの。